博士論文「唐代音楽詩の研究-詩は音楽を表現しうるか-」

論文の要旨と長所

詩が音楽を主題とするとき果たして如何なる作品が生み出されるのか、詩は音楽という不可視の対象を如何にして表現するのか。
本論文は、このような問題意識に立って、唐以前の音楽論や文学作品をも視野に入れつつ、
唐代の音楽詩すなわち音楽を描写する詩について考察を加え、唐詩人の音楽認識のあり方を解明したものです。

第一部「唐詩の音楽描写における類型表現」は、唐代の音楽詩の類型的な表現について考察を加えたものです。
第一章「唐代音楽詩における楽器のイメージ―琴・筝・琵琶・笛―」では、楽器と音楽描写の関係に焦点を当て、
各楽器の音楽描写に見られる特徴について考察することにより、楽器が持っている固有のイメージが、
その楽器が奏でる音楽をどのように表現すべきかを暗に規定していたことを明らかにしました。
第二章「「水」「風」「鳥」による音楽描写―流れる音楽と飛ぶ音楽―」では、
主題とする楽器の如何に関わらず唐詩の音楽描写のなかに共通して見られる表現について、
「水」「風」「鳥」の形象を用いた表現を取りあげてその特質を考察することにより、
「水」「風」「鳥」の発する音声を借りて音楽を聴覚的に表そうとする捉え方と、
これらの視覚的イメージによって音楽を可視的に表そうとする捉え方との二類型が存在することを明らかにしました。

第二部「音楽描写と聴覚・皮膚感覚」・第三部「音楽描写と視覚」は、第一部で論じた諸類型に関する考察を踏まえつつ、
中唐期を代表する詩人である白居易・韓愈・李賀らの音楽詩に焦点を当て、その音楽描写の特質、またそこに現れた音楽認識の特質について考察したものです。
第二部第一章「白詩の音楽描写における聴覚と冷覚―「琵琶引」を中心に―」では、白居易の音楽描写の特質について「琵琶引」を軸に考察します。
それによって、白居易の音楽描写には、自然界の音を素朴に摸倣する形で音楽を捉えようとする態度から、
人間の創意に基づいてより複雑な形で音楽を捉えようとする態度への移行が見られること、
また白居易が従来の詩人たちが殆んど着目してこなかった音楽の官能性に着目し、詩中に官能美の世界を創造した初めての詩人であったことを明らかにしました。
第二部第二章「白詩の音楽描写における「通感」と知覚をめぐる美意識について」では、第一章の考察を踏まえて、
白居易の音楽詩のなかには聴覚だけでなく、視覚・触覚・痛覚・冷覚などさまざまな知覚を総合する形で音楽を捉えた表現、
すなわち「共感覚比喩」と呼ばれる修辞技法が見られることを明らかにしました。
第二部第三章「衝突の音―中晩唐の詩歌に見られる聴覚的感性の変容とその意味―」では、いったん音楽描写の問題を離れ、
音声なるものが中晩唐期の詩歌においてどのように捉えられていたかについて「硬質物の衝突音」を描写する表現を手がかりに考察します。
それによって、自然界の音声や詩の音律を自らの知覚的欲求を満たすものとして官能的に受容しようとする態度が中晩唐期の詩に広く見られることを明らかにしました。

第三部「音楽の映像―韓愈「聽穎師彈琴」と李賀「李憑箜篌引」を中心に―」では、さまざまな音楽描写のうち、
特に音楽を景物の形象によって視覚的に捉えようとする表現の系譜について、中唐の韓愈・李賀の詩を中心に取りあげて考察を加えます。
それによって、韓愈の場合は一篇の詩のなかで一回の演奏の起伏や抑揚を描き尽し、音楽の有り様を時間的な流れに従って再現しようとしていた点において、
李賀の場合は自己の空想を縦横に巡らし非現実の様々な情景を描いている点において、それぞれ唐代の音楽詩における到達点となり得ていることを明らかにしました。

本論文は、大きくは次に挙げる三点において高く評価されます。
(一)唐代の音楽詩に関する従来の研究のほとんどは、詩を材料にして唐代の音楽および音楽文化について考察するものでした。
それに対して本論文は、唐代の音楽詩の表現そのものを正面から取りあげ、表現に即した考察を加えたものであり、その問題設定・研究方法の点において独創性を有しています。
(二)従来の研究のほとんどは、白居易・韓愈など一部の限られた詩人の作品を材料にして行われてきました。
それに対して本論文は、唐代の詩のみならず、漢魏晋南北朝期の詩を博捜したうえに成り立っており、その資料調査の手堅さにおいて高い完成度を有しています。
(三)本論文の考察は、唐代の音楽詩に見られる表現を、類型的な表現と独創的な表現とに分けて捉える形で進められます。
従来の研究には、どちらか一方に囚われるあまり他方を見失ってしまっている嫌いがありますが、本論文は両者をバランスよく掬い上げる形で的確な分析が加えられています。

唐代の音楽詩の表現の特質について、資料の博捜と正確な読解に基づいて精緻な分析を加えた本論文は、
独り音楽詩のみならず、唐代の詩に関する研究の独創的な成果として高く評価できるものです。