博士論文「宋詞研究―『草堂詩餘』と柳永―」

論文の要旨と長所

詞は、8世紀の中葉頃に起こったとされる歌謡芸術の一つであり、後の宋代には時代を代表する文学ジャンルに発展しました。
詞は元来歌曲の歌詞であったため、文学ジャンルとして成立した後も歌われる側面と読まれる側面の両面をもちましたが、
本論文は、南宋期に生まれたとされる詞のアンソロジー『草堂詩餘』に着目することによって、元来歌詞であった宋詞がいかに文字化され、
そのテクストや書物が後代にどのように受容されたかを論じるものです。
全体は六章からなり、第一章は「柳永詞論――その物語性と表現――」、第二章は「『草堂詩餘』の類書的性格について」、
第三章は「『草堂詩餘』と書会」、第四章は「『草堂詩餘』と柳永」、第五章は「『草堂詩餘』はどこからきたか」、
第六章は「惜春の系譜」と題され、冒頭には「はじめに」が置かれます。

従来の宋詞研究は作家研究や作品研究に大きく傾斜し、詞選集や通俗本が研究の俎上に上されることはあまりありませんでした。
詞選集や通俗本に論及されることがあっても、多くの場合、テキストクリティークの一材料としてしか扱われず、
詞選集それ自体がもつ文学史上の意義、文化史上の特徴が明らかにされることはなかったのです。
本論文は、詞選集が書籍としてもつ情報全体を整理し、その体裁や収録作品、注の内容等を詳細に吟味して、
書籍の流布をめぐる社会史的な観点から宋詞研究を見直そうとしました。

また本論文は、数ある詞選集の中でも、最も大衆的で通俗的だとされた『草堂詩餘』を選択しました。
『草堂詩餘』は、南宋期の書目等に著禄はあるものの、そこでの記述は現存諸版本との間に多くの矛盾をかかえ、
しかも、明代以後に坊刻の俗本が非常に多く出版されたため、版本の系統もきわめて複雑です。
しかるに本論文は、『草堂詩餘』のこの通俗性や複雑さに着目し、それらの分析を通して、
詞選集が何を目的に編纂され如何に受容されたかを考察しようとしました。
その着眼点のよさは評価されていいと思います。

また本論文は、上記の観点から『草堂詩餘』の体裁や収録作品、注の内容等を詳細に吟味し、
南宋期以後陸続と出版された百科事典や学習参考書類と『草堂詩餘』が似た形態をとること、
『草堂詩餘』が収録する作品とそのテキストには一定の傾向が見られること、
戯曲・小説の作者たちが『草堂詩餘』を参照した可能性があること、等を明らかにしました。
特に、元明期の戯曲・小説に引かれる詞を丹念に分析して、
それらの一部が『草堂詩餘』所収の作品の切り貼りであることを立証した部分は、本博士論文の白眉といっていいでしょう。

また、日本ではあまり紹介されることのない詞作品を多く引用し、それらに有用な語注を施して正確な翻訳を付したことも本論文の大きな功績です。