阪大中哲HP→古典のことば
目次からどうぞ
このページでは、湯浅邦弘教授が古典漢文の名言名句を取り上げ、その意味や現代的意義について分かりやすく解説します。
■吾れ日に三たび吾が身を省みる。(『論語』学而篇)
『論語』の中に記された曾子のことばです。曾子とは、孔子の門人で、姓名は曾参(そうしん)、字(あざな)は子輿(しよ)。親孝行の人として知られ、『孝経』の著者と伝えられています。
曾子は、「反省」の重要性を説いています。自己の内面を見つめること、これは儒家思想の基本の一つです。ただ曾子はそれを「日に三たび」と説くのです。この「三」は三つのことであるという理解もありますが、漢文では通常「たびたび」「何度も」というイメージを伝えることばです。この「三省」を冠した書店があることはご存知の通りです。
では、曾子はどのようなことを「省み」たのか。それは、「忠(まごころ)」をつくして他人の面倒を見る、「信(まこと)」の気持ちで友と交際する、そして、自分が習得したことのみを他人に伝える、ということだったそうです。(「人の為に謀(はか)りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝うるか」。)
ここで重視された「忠」「信」はいずれもいつわりのない気持ちをいうことばですが、「忠」字の構成要素に「心」があり、また「信」字の構成要素に「言」があることから分かるように、「忠」はどちからと言えば内なる心のまこと、「信」は発せられたことばのまこと、の意味で使い分けられることもあります。
なお、『論語』では、「忠」「信」は広く対人関係の際に求められる徳目として重視されています。ところが、最近発見された戦国時代の新資料(郭店楚簡)の中には、『忠信之道(ちゅうしんのみち)』という文献が見られ、その中では、「忠」「信」とはまず誰よりも為政者の側に求められる徳目であるとされています。「忠」「信」という概念が、その後、政治思想として展開していったことが分かります。人の上に立つ者は、まず自らを省みて内心を修め、それが整ってからそれを他者に及ぼしていく、これが儒家思想の基本的な理念です。 |
『論語』冒頭部
|
上へ
■学校の衰(おとろ)えは、世の衰うる基(もと)(『草茅危言』)
大阪大学の源流「懐徳堂」─その第四代学主として活躍した中井竹山(なかいちくざん)のことばです。竹山は、時の老中松平定信(まつだいらさだのぶ)に上呈した『草茅危言(そうぼうきげん)』において、日本における学校の成立と歴史について論じ、奈良・平安朝以来の戦乱の世に、学校が永く衰退したことを嘆きました。教育は国家百年の計。竹山は、学校の衰退を、単なる教育機関の衰微ではなく、世の中そのものの衰退であると考えたのです。これに続けて竹山は、「国家に長たる人、豈(あに)心をここに留(とど)めざるべけんや」と説いています。国政、特に文教政策に関わる方々に特に読んでいただきたい一文です。
ところで、「学校」とは、古く中国の古典に見える漢語です。性善説で有名な孟子は、「学校」を定義して、子弟を教え導き「人倫(じんりん)を明らかにする」ところであると述べ、またそれは為政者の務めとして整えられるべき施設であると説いています(『孟子』滕文公(とうぶんこう)篇)。こうした「学校」の理念は今、実現されているでしょうか。
『草茅危言』冒頭部 『草茅危言』表紙
上へ
■書生(しょせい)の交りは、貴賤貧富(きせんひんぷ)を論ぜず、同輩と為(な)すべき事
(「宝暦八年定書」)
懐徳堂に寄宿していた学生を対象として宝暦八年(一七五八)に制定された定書(さだめがき)のことばです(全三条の内の第一条)。
士農工商という厳しい身分制社会の中にあって、書生の交わりを「貴賤貧富」を問わず「同輩」であると規定しています。懐徳堂の基本精神を端的に表していると言えましょう。また、この後の条によれば、懐徳堂では、社会的地位や経済力といった点で差別はしないが、大人とこどもは厳格に区別され、また古参か新参か、あるいは学術の進度などを尺度として、互いに座席を譲り合うよう指示されていたことが分かります。
「宝暦八年(1758)定書」全三条
上へ
■人の大切なる宝は一心の善に在りと知るべし。金銀珠玉は、山の如く積置ても時有りて尽(つ)くべし。一心の善は、一生用ても尽る期(とき)の無きなり(『蒙養篇』)
人の持つべき「宝」について述べた中井竹山のことばです。竹山は、人にとって真に大切な宝は「一心の善」であると説いています。通常、宝と考えられている「金銀珠玉」は、たとえ山の如くに蓄積しても、それが物である限り、いつかは尽きてしまいます。しかし、心の中の善意は、一生用いても決して尽きることはないのです。
「もの」の時代が終わり、「こころ」の充実が求められる今。竹山のことばは、人が一生をかけて求めるべきものは何か、について重要な指針を与えてくれます。
中井竹山肖像
上へ
■彼を知り己を知れば、百戦して殆からず、彼を知らずして己を知れば、一勝一負し、彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し。(『孫子』謀攻篇)
人生を一つの戦いだとすれば、『孫子』をはじめとする中国古代の兵法は、私たちの人生に真の勝利とは何か、また、どのように勝つのかを教えてくれます。
敵の実情を知り、また自軍の実態を知る。そうすれば、百たび戦っても危ういことはない。また敵の実態については充分な情報が得られなかった。しかし自軍の実態については充分把握していた。このような場合は、「一勝一負」となる。敵を知らずまた己をも知らないということでは、戦うたびに身を危険にさらすこととなる。
ここで『孫子』は、情報収集と自己評価がいかに大切かを述べています。自分が立ち向かおうとする敵の実態を明らかにすることだけではなく、「己を知る」ことも大切であると説いているのです。勝算は、彼我(ひが)の戦力比較によって相対的に明らかになってくるからです。自分のことを棚にあげた上での判断は禁物です。
|
|
|
戦車図 |
『孫子』謀攻篇「知彼知己」条 |
『孫子』冒頭部 |
上へ
■兵は凶器なり。争は逆徳なり。(『尉繚子』武議篇)
兵は不祥(不吉)の器である、とは『老子』第三十一章のことばです。戦国時代の兵書『尉繚子(うつりょうし)』も同様に、戦争を忌むべきものと考えます。だから戦争は、本来、自国の安全を脅かし国際秩序を乱すような悪逆の国にのみ適用されるものなのです。ところが、現実には、威をかざすために戦争をする国が多く、それは戦争の本来の目的を忘れた暴挙にすぎないと『尉繚子』は批判します。
なお、やむを得ずして戦うというのは、実は、中国の兵学思想を貫く重要な特色です。中国に侵略してくる夷狄(異民族)を撃ちはらうということが、秦漢帝国以降の基本戦略でした。わずかな例外を除けば、中国歴代の皇帝は、万里の長城を越えるような大遠征をみずから敢行することはありませんでした。
報道によれば、あのイラク戦争で、アメリカは、『孫子』の兵法に学んで作戦計画を立案したとのことです。しかし、その軍事行動は中国兵法の基本的理念とは合致しないように思われます。
|
|
『尉繚子』武議篇「兵者凶器」条 |
『尉繚子』冒頭部 |
上へ
■兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久なるを睹ざるなり。(『孫子』作戦篇)
『孫子』のことばです。戦争では、少々まずい点があっても、とにかく早く切り上げる(拙速)ということはある。しかし、ぐずぐずしてうまい(巧久)ということはない。長期戦が国家に利益をもたらすということは決してありえない。
このように『孫子』は、速やかな勝利こそが理想であるとし、長期戦を評価しようとしません。早ければ何でもよいということではありません。しかし、とにかく戦いは短期に決着をつけるのが望ましいのです。長引けば長引くほど、士気は衰え、国力は疲弊していくからです。
これを仕事にたとえてみましょう。良い仕事は一気呵成に何かにとりつかれたかのように早くできる場合があります。もちろん、やっつけ仕事はいけません。しかし仕事が遅い人は、完璧を期しているから遅くなるのだと理屈をこねがちです。長引いた仕事で完璧となる例はごくまれではないでしょうか。
|
|
攻城兵器「雲梯」 |
『孫子』作戦篇「兵聞拙速」条 |
上へ
※以上の内、懐徳堂関係のことばについては『懐徳堂事典』、兵法のことばについては『よみがえる中国の兵法』を基にしています。それぞれ詳細については、同書を御覧下さい。
|
|
『懐徳堂辞典』 |
『よみがえる中国の兵法』 |
|