このコンテンツは、『中国研究集刊』陽号(總第34号、2003年12月発行)に掲載された「千字文」周行の道─『中国研究集刊』の「蘆北賞」受賞について─」を、発行者および原著者の許可を得て転載したものである。なお、一部の表現について、媒体の相違による修正が施されている。

「千字文」周行の道─『中国研究集刊』の「蘆北賞」受賞について─

湯浅邦弘

このたび『中国研究集刊』は、財団法人橋本循記念会の第十三回「蘆北賞」を受賞いたしました。

橋本循記念会は、中国文学研究の泰斗 橋本循先生(立命館大学名誉教授)の遺徳を偲び、平成元年(一九八九)に設立された財団法人です。東アジアの留学生に対して奨学金を支給し、中国学に関する優れた研究論著や学術誌に対して、橋本先生の雅号にちなんだ「蘆北賞」の表彰を行っています。

この名誉ある蘆北賞を本誌が受賞することとなりました。特定の研究論著ではなく、多くの関係者の知の総体とも言える『中国研究集刊』に対して高い評価をいただきましたのは、会員各位ならびに関係者の御支援の賜物と、厚く御礼申し上げます。ここに受賞の御報告を申し上げますとともに、以下に、改めて『中国研究集刊』の創刊から現在に至るまでを振り返り、一層の御支援御鞭撻をお願い申し上げる次第です。

『中国研究集刊』の編集

平成十五年(二〇〇三)五月、『中国研究集刊』の編集作業は佳境に入り、研究室は殺気立っていた。通常号に加えて、別冊特集号「新出土資料と中国思想史」を翌月に刊行すべく、二つの編集作業が同時に進行していたからである。

『中国研究集刊』は編集作業の一切を研究室の教官・学生が一丸となって行っている。手書き原稿・テキスト原稿、ともに『中国研究集刊』書式に成型し、校正を繰り返しながら完全版下を作製する。業者には、その完全版下に基づく印刷と製本のみを発注するのである。

その結果、この編集作業を経験した者は、パソコンの操作はもちろん、複雑な文字や図表の作成、割付や校正、添付文書の作成、発送業務等にも精通し、出版編集の業界でも充分に活躍できるのではないかと思われるほどに成長する。

また、こうした編集方法を採っているため、投稿原稿についても、柔軟な対応が可能となる。通常の学術誌では掲載しづらい長大な論考、画像や図表を多く含む原稿なども、可能な限り登載に努めている。雑誌の枠が先にあってそれに収まる原稿があるのではなく、優れた研究成果が先ずあってそれを登載する学術誌があるのである。

『中国研究集刊』の創刊

こうした『中国研究集刊』のスタイルは、その創刊時から基本的には変わっていない。『中国研究集刊』が創刊されたのは、昭和五十九年(一九八四)六月のことである。創刊を決断されたのは、その二年前の昭和五十七年(一九八二)四月に大阪大学中国哲学研究室に着任された加地伸行先生である。先生は、大阪大学が他の旧帝大に比べて後発の大学であることに苦慮しておられた。研究室を強力な研究者集団とするためには、その基盤整備を進めることが重要であると考えられたのである。

完成した創刊号は、全四十六頁、執筆者は二名というものであったが、創刊に当たられた先生の並々ならぬ決意が読み取れるものであった。号数も、単に一号、二号とするのではなく、『千字文』に従って、「天」からスタートしたのも先生のアイデアであり、この創刊にかける先生の意気込みを表していた。

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創刊号(1984年)

刊行に際して、いくつかのルールが定められた。まずは、右のような編集スタイルをとること。従って、いわゆる論文のみではなく、分量の多寡にかかわらず学術的に意義のある報告類、図表を多く含む論考なども積極的に登載すること。また、研究室院生のみが名を連ねるような、言わば内部雑誌とはせず、開かれた研究誌とすること。編集実務は中国哲学研究室が全責任を持って当たるものの、内容は、中国哲学に限定せず、中国文学・語学、東洋史学、文字学、日本漢学など広義の「中国学」となるよう配慮すること。それ故、刊行母体を「大阪大学中国学会」と称すること。会費をできるだけ廉価にすること、などである。

『中国研究集刊』の特色

しかし、創刊したばかりの学術誌が全国的な知名度を得るまでには、永い歳月を要することとなった。会員の数は伸び悩んだ。当時、研究室に集中講義でお見えになった某先生は、創刊号である「天」号を御覧になった後、次は「地」、その次は「人」で終わりですかと尋ねられ、我々は絶句した。いわゆる三号雑誌となる危険性も充分にあったのである。

ただ、『中国研究集刊』は関係者の熱き思いに支えられて号数を重ねていった。宇号(一九八八年)からは年二冊の刊行ペースも定着した。他誌にはあまり見られない特色も話題となった。加地先生が創刊号から断続的に執筆された「中国哲学史研究ノート」は、特に若手研究者に向けて研究の意義や手法を伝授する内容で、これを指針として研究活動を開始した者も多かった。この「ノート」は盈号〔第十一号〕(一九九二年)まで続き、その続編を望む声も多い。

また、研究者との対談も話題となった。宇号・宙号(一九八八)に連載された田中麻紗巳先生と加地先生との対談、洪号・荒号(一九八九年)に連載された近藤光男先生と加地先生との対談は、それぞれ田中先生の『両漢思想の研究』、近藤先生の『清朝考証学の研究』という大著の内容についての対談であり、そのまま良質の書評として読むことができた。

さらに、特筆されるのは、平成六年(一九九四)の「特別号」である。これは、その前年の平成五年(一九九三)九月二十五・二十六日、大阪大学が開催準備校(準備会代表加地伸行教授)となって開催された日本中国学会第四十五回大会の全記録である。この大会は、大阪大学内に適当な教室を確保できなかったことなどから、吹田市文化会館(メイシアター)を会場として開催された。そのため、学会の準備と運営は困難を極めることが予想されたが、準備会の周到な計画により、大会は盛況の内に閉幕した。それまで、年に一度の全国学会は、関係者にとって最大のイベントであるにも関わらず、その内容が詳しく報告されることはなく、終了とともに徐々に忘却されていくのが常であった。

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特別号(1994年)

この特別号は、両日の大会要項は無論のこと、シンポジウム(司会 河田悌一氏、基調提題者 島田虔次氏・陳舜臣氏、代表討論者 佐藤慎一氏・井波律子氏)の全内容、学術参考ビデオとして上映された「『儀礼』士昏礼の復元・台湾省における現代の或る葬礼の記録」の解説、シンポジウムの報道記事(毎日・朝日・読売)などをも収録し、全国大会の貴重な記録となったのである。

『中国研究集刊』の展開

創刊号から刊行責任者として編集に携わってこられた加地先生が、平成十年(一九九八)三月、大阪大学を退官された。その年の秋号〔第二二号〕において、先生は「本誌の刊行責任を終えて」と題し、初めて創刊以来の御苦労を公に語られた。刊行経費についても、実は先生の御尽力があったことを初めて知る会員も多かった。

翌年、その編集責任を引き継いだ筆者には、いきなり大きな試練が待ちうけていた。平成十一年(一九九九)四月、研究室は、いわゆる大学院重点化に伴い、四月以降、助手ポストを暫時失うこととなった。それまで、研究室の総力を挙げて編集してきた『中国研究集刊』は、その要である助手を欠いたまま、編集作業を進めることとなったのである。

しかし、研究室の学生諸君の献身的な協力と関係者の温かい御支援とによって、年二回の刊行ペースは維持された。また、年に一度の日本中国学会全国大会には、「大阪大学中国学会」として必ず出展し、書籍販売スペースの一隅で、『中国研究集刊』の広報に努めるようにした。

また、寒号〔第一八号〕(一九九六年)から連載が始まった岩本憲司先生の「春秋經傳集解譯稿」は、平成十三年(二〇〇一)、隠公元年から成公十八年の部分が『春秋左氏傳杜預集解(上)』として汲古書院から刊行された。本誌の連載が書籍として刊行された初のケースである。岩本先生には、引き続き成号〔第二八号〕(二〇〇一年)から、襄公元年以降を「續篇」として連載していただいている。

さらに、近年の特色としては、三つのことを挙げることができよう。

第一は、インターネットによる広報活動の展開である。平成十一年(一九九九)九月、中国哲学研究室は、インターネット上に研究室の公式ホームページを公開した。当時、インターネットを活用した研究室の紹介や研究活動の公開は、人文系の学問分野ではまだ草創期にあったが、研究室では、逸早くホームページを制作し、そこに「大阪大学中国学会」の項を設けた。そこでは、最新号の目次や全バックナンバーを閲覧できるほか、入会や問い合わせのフォームも併設されている。現在、このホームページ上で、論考のテキスト自体を提供する試みも部分的に行っている。将来的には、さらにこの電子化を進め、ホームページと連動した『中国研究集刊』の展開を企図している。

第二は、懐徳堂研究の展開である。懐徳堂は、享保九年(一七二四)に大坂に設立された漢学塾で、適塾とともに大阪大学の源流と位置づけられている学問所である。現在、関係資料約五万点が「懐徳堂文庫」として大阪大学附属図書館に収蔵されているが、この懐徳堂文庫の総合調査を進めるため、平成十二年(二〇〇〇)四月に懐徳堂研究会が発足した。

学内外の関係者からなるこの研究会は、書庫内の貴重資料の整理・研究を進めて、その結果を解題原稿として執筆する一方、それらを電子情報として公開するための準備を開始した。その成果の一端は、平成十三年(二〇〇一)五月の大阪大学創立七十周年記念事業の中で、「バーチャル懐徳堂」「懐徳堂データベース」などとして公開され、その後も、『懐徳堂文庫図書目録』全頁を電子化した「懐徳堂文庫電子図書目録」(http://kaitokudo.jp/)、西村天囚『懐徳堂考』をCD─ROM版として制作した「電子懐徳堂考」などが共同研究の成果として公開されている。

この研究会の地道な活動は続き、その成果が(財)懐徳堂記念会の機関誌『懐徳』や『中国研究集刊』などに続々と掲載されることとなった。

本誌について言えば、余号〔第二七号〕(二〇〇〇年)以降、関係論考の投稿が続いており、前号の調号〔第三二号〕(二〇〇三年)では、寺門日出男氏「懐徳堂文庫蔵『萬年先生遺稿』をめぐって」、竹田健二氏「『懐徳堂紀年』とその成立過程」が掲載され、また本号でも湯城吉信氏「『懐徳堂会餞詩巻』訳注」、矢羽野隆男氏「並河寒泉撰『難波なかづかみ』翻刻と解説」が掲載されている。懐徳堂と大阪大学との密接な関係の上に成り立つ研究成果であり、言わば地の利を活かした活動の好例であろう。

第三は、別冊の刊行である。第三十二号と同時に刊行した別冊(通算第三十三号)は、中国思想史研究の大きなうねりの中から誕生した。

現在、この研究領域で最も注目を集めているのは、戦国楚簡であろう。近年公開が相次いでいる大量の楚簡群は、学界に大きな衝撃を与えている。一九九三年には、湖北省荊門市郭店一号楚墓から戦国時代の竹簡が出土し、その翌年には、上海博物館が同様の戦国楚簡を購得した。それぞれ「郭店楚墓竹簡(郭店楚簡)」「上海博物館蔵戦国楚竹書(上博楚簡)」と総称されたこれら新出土資料は、戦国時代の古文字で記されており、そこには、『周易』『詩経』『礼記』『老子』など伝世の主要な古典と密接な関係を有する諸文献の他、儒家系・道家系などの知られざる思想文献が大量に含まれていた。これらの解読が進めば、中国古代思想史研究にとっては無論のこと、東洋史学・古文字学・中国文学など周辺領域の研究にとっても、画期的な状況をもたらすこととなる。

ただ、日本の学界では、研究の基盤整備が十分になされないまま、前提を異にする個別研究が乱立する傾向にあった。また、若手研究者からは、新出資料に興味はあるものの、特殊な資料であるから研究の糸口がつかめないという声も上がっていた。

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別冊特集号(2003年)

そこで、『中国研究集刊』では、出土資料研究の基盤整備を進め、中国思想史研究に新たな展望を拓くべく、「新出土資料と中国思想史」という特集を企画し、通常号とは別に単立の別冊特集号として刊行することとしたのである。ここでは、戦国楚簡研究会による郭店楚簡と上博楚簡公開分の全文献についての詳細な解題、楚簡の字体や形制の説明、竹簡に関する専門用語の解説のほか、新出土資料に関する内外の主要文献についての提要を掲載した。

これは、中国学研究の新たな動向を真摯に受け止め、かつ速報として情報を公開しようとしたものである。『中国研究集刊』の歴史の上では、こうした別冊の刊行は初めての試みであった。

こうして『中国研究集刊』は新たな要素を加えながら、本年、創刊二十周年を迎えた。今回の受賞は、その節目の年に当たる栄誉である。

昭和五十九年、わずか四十六頁で創刊され、「天」「地」「人」で完結するのかと揶揄された『中国研究集刊』は、本年、三十四号を刊行するに至った。二十年の歳月は、長く重い。しかし、「千字文」周行の道は、まだ始まったばかりである。


大阪大学中国学会