第1回大阪大学文学部同窓会講座のご案内


適塾とその周辺を訪ねる

<講師>  村田路人氏(大阪大学大学院文学研究科教授、1977年卒〔国史学〕)

<日時>  2009年5月9日(土)午後1時30分集合

<集合場所>  適塾西隣空地の 緒方洪庵座像前

(適塾…大阪市中央区北浜3-3-8、地下鉄御堂筋線または京阪淀屋橋駅下車すぐ)

<見学コース>  (1)銅座跡(愛珠幼稚園)→(2)大坂除痘館跡
→(3)懐徳堂旧址碑→(4)適塾(ここでは、通常閲覧できない史料の解説も行います)

 同窓会活性化の試みの一つとして、新たに「大阪大学文学部同窓会講座」を企画しました。今後、定期的に講演会や見学会を行う予定です。

 今回は、その第1回目として、文学部卒業生で現在大阪大学大学院文学研究科教授(日本史学)の村田路人氏が、適塾とその周辺を案内します。現在大阪大学の所有となっている適塾は、幕末期に緒方洪庵が開いた蘭学塾で、蘭学塾の遺構としても、また江戸時代の町屋の遺構としても非常に貴重なものです。今回は、建物の見学だけでなく、洪庵の手紙や塾生の席次表など、適塾記念会所蔵の貴重史料の解説もあります。また、洪庵が開いた種痘所である大坂除痘館の跡、江戸幕府が銅の精錬・売買・輸送を統轄するために設けた銅座の跡(現愛珠幼稚園)、懐徳堂旧址碑など、周辺の史跡も訪れます。ふるってご参加下さい。

 


参考資料…見学予定地の概略

(1)銅座跡(愛珠幼稚園)

 銅座は、江戸時代、幕府が銅の精錬・売買・輸送を統轄するために設けた機関で、元禄14年(1701)、大坂石町に設置されたのが最初である。これは正徳2年(1712)に廃止される。元文3年(1738)、再び大坂内両替町に銅座が設けられたが、これも寛延3年(1750)に廃止された。その代わりの機関として、大坂過書町に長崎御用銅会所が設けられた。明和3年(1766)、銅座が復活し、過書町の長崎御用銅会所を銅座に取立てた。この第三次銅座は明治元年(1868)まで存続した。銅座には、江戸に参府する長崎出島のオランダ商館員が宿泊し、蘭書が取引きされることもあった。

 愛珠幼稚園は、明治13年(1880)開園の大阪で最も古い幼稚園である。同34年(1901)、江戸時代に銅座の建物があった現在地に移転し、園舎も新築された。園舎は、現存する幼稚園の建物としては日本で最古のもの。明治期にストラディバリウスのバイオリンを購入したことにみられるように、早くから園児の情操教育に熱心であった。

(2)大坂除痘館跡

 嘉永2年(1849)、牛痘のかさぶたがオランダ船によって長崎にもたらされ、日本で初めて種痘が成功した。この牛痘苗が京都に届き、同地でも種痘が成功した。これを聞いた緒方洪庵が、日野葛民とともに京都に赴いて分苗を願い、同年11月、大坂古手町(現中央区道修町5丁目)に種痘所を開いた。この種痘所は大坂除痘館といわれ、そこから各地に分苗が行われた。大坂除痘館は安政5年(1858)に官許を受け、万延元年(1860)、尼崎町一丁目の適塾南向かい(現在緒方ビルがあるところ)に移転した。

(3)懐徳堂旧址碑

 懐徳堂は、享保9年(1724)、道明寺屋吉左衛門(富永芳春)ら大坂の富裕な商人5人が出資し、大坂尼崎町一丁目に設立した儒学塾である。同11年、幕府の公許を受け、大坂学問所と称した。初代学主には、大坂安土町二丁目の多松堂という学塾で朱子学を講じていた三宅石庵(万年、1665~1730)が迎えられた。荻生徂徠の学問を激しく批判して当時の儒学界に議論を巻き起こした第4代学主の中井竹山(1730~1804)と、その弟で第5代学主となった履軒(1732~1817)の頃に、儒学塾としての盛名が高まった。

 明治2年(1869)に廃校となるが、大正2年(1913)に懐徳堂記念会が設立され、同5年、東区豊後町(現中央区本町橋)に重建懐徳堂が建てられた。建物は昭和20年(1945)3月の空襲で焼失したが、蔵書類は焼失を免れ、現在、それらは大阪大学附属図書館に保管されている。

 懐徳堂旧址碑は、重建懐徳堂の建設によって懐徳堂が復興したことを記念し、大正7年(1918)6月に、もとの懐徳堂があった場所に建てられた碑である。懐徳堂の復興に力を尽くした西村時彦(天囚、朝日新聞記者)の撰文で、書は中井竹山曾孫の中井木菟麻呂(つぐまろ)の手になる。

(4)適塾

適々斎塾ともいう。緒方洪庵が天保9年(1838)に大坂で開いた蘭学塾。最初瓦町にあったが、手狭になったので、弘化2年(1845)、過書町に移転した。塾名は洪庵の号「適々斎」にちなむ。蘭書の講読に重きを置き、徹底した実力主義と能力別編成による教育が行われた。大村益次郎、長与専斎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介、佐野常民ら、近代日本の基礎を築いた人物が輩出した。

 文久2年(1862)、洪庵が江戸に去ったあとは、洪庵の養子拙斎が住んで塾生の教育にあたった。塾そのものは、少なくとも明治19年(1886)までは存続したことがわかっている。この建物には明治中期まで拙斎が居住し、その後、洪庵六男収二郎の所有となった。のち、華陽堂病院となったが、昭和17年(1942)、大阪帝国大学に寄附された。昭和39年(1964)、重要文化財に指定される。老朽化が進んだため、昭和51年(1976)11月から同55年(1980)3月にかけ、解体修理が行われた。江戸時代大坂の町屋遺構としてもきわめて貴重である。