進学希望の方へ
目次
入試に関する情報
1、阪大文学部への入学について2、専攻決定について
3、大学院への入学について
学部進学希望の方へ
1、文学部というところ2、フランス文学とは
3、改めて、フランス文学研究室というところ
4、最後に、ぜひフランス文学研究室へ
大学院進学希望の方へ
1、文学部の大学院というところ2、フランス文学研究ということ
3、阪大仏文へようこそ
◆入試にかんする情報
阪大文学部への入学について
大阪大学のWebサイトで募集要項を公開しています。こちらからどうぞ。専攻決定について
大阪大学文学部では、1年次の後期の初めに(つまり10月頃に)専攻決定のための説明会が開かれます。そこで、各講座の教授による説明を聞き、自分の志望する講座を用紙に記入して提出します。たいていの場合は自分の希望通りの講座に入ることができますが、定員オーバーの場合は試験が行われます。(仏文の定員は10名で、近年は残念ながら定員オーバーしたことは無し。)そして、2年次から、各講座の専門の勉強をすることになります。また、他専攻に入ったけど、やっぱりフランス文学研究室が良かったという人も、専攻変更をすることが可能です。ただし、卒業するためには講座に2年以上在籍しなければならないという規則があるので、3年次以降に専攻変更すると、4年間で大学を卒業することができなくなるので注意が必要。
大学院への入学について
大阪大学文学部では、秋期(9月)と春期(2月)に、大学院への入学試験を行っています。他大学を卒業された方や社会人の方も、阪大仏文研究室では大歓迎です。詳しい要項については、大阪大学文学部のWebサイトに説明がありますので、ここをクリックして御覧ください。学部進学希望の方へ
文学部へ進学を希望されている方、または専攻未決定の方へのご案内
以下の文章は、一院生が現在感じている、大学について、研究についての思いを交えながら、阪大仏文の雰囲気を幾らかでもお伝えできれば、という趣旨のもとに書かれたものです。あくまでご参考までに、お読みいただければ幸いです。(文責 D3生 足立 和彦)追記 本原稿は2002春頃に書かれたものです。変更の必要を感じていますが、いましばらく引き続き掲載します。ご理解ください。(2007年2月 執筆者)
文学部というところ
文学部の最大の魅力は自由にある。ここで私達は、私達自身の興味と関心だけに従って、思い思いの研究テーマと取り組むことが出来るだろう。もちろん授業や演習は大切だ。どんな学問にも、必要不可欠な知識が存在する。スポーツでいうならば筋トレが、授業や演習に当るだろう。仏文であれば、何よりフランス語の力は欠かせない。同時に文学史の知識、実際のテクストの正確な読解の練習、といった基礎体力をつければ、自分の研究がよりしっかりしたものになることだろう。下半身を鍛えていない投手は球に威力がない。野球にたとえればそういうことが、学問の世界にも存在するのは、自明のことだ。
とはいえやっぱり、文学部には自由がある。たとえば難解な古フランス語にとりくみ、腰を据えて「ロランの歌」一行一行をじっくり読み解いていく人がいる隣では、ロラン・バルトの文学理論に酔いしれながら、テクストを縦横に味わいつくそう、とたくらんでいる人がいるかもしれない。一人一人が、自分自身の好奇心と熱意とに駆られながら、自分自身の道を歩いていく。教師は時に助言を、時に叱責を与えてくれるだろう。さながら行く先を照らす灯台のような頼りになる存在だが、同じ船に乗っているわけではない。私達は自ら帆を上げ、舵を取り、がむしゃらにオールを漕いだり、時には吹く風に身を任せたりしながら、「文学」の大海に身を乗り出す。ボードレールは「旅への誘い」という詩の中で、未知なる楽園への誘惑を歌った。思えば文学部で学ぶこと、それもまた一つの「旅」のようなものであるだろう。
フランス文学とは
文学部へ行きたいと思ってはいるけれど、まだ専攻までは決めていない、という人も多いだろう。文学部と一口に言っても、その中身は多種多様だから、迷うのも当然のこと。たとえば歴史や考古学、哲学や美学や様々な芸術の分野の中で、たった一つフランス文学を選ぶことには、それなりの勇気が要るだろう。けれどフランス文学はきっと、その勇気と決断とに応えるだけのものを持っている。それは間違いない。何よりも懐が深いということ、それがフランス文学の持つ魅力に他ならないのだから。古いところでは11・12世紀の中世から、主には16世紀以降、現代までの長い歳月に渡ってフランス文学は書き継がれ、読み継がれてきた。そして多くの時代にあって、フランスは文学・芸術の領域において一つの中心であり続けてきたと言える。多くの優れた才能の持ち主は、パリを中心とするフランスで活動を行ってきた。その活動は詩・演劇・哲学・小説・批評といった種々の分野に渡っている。
たとえばの話である。イギリスにはシェークスピアがいて、ドイツにはゲーテがいて、イタリアにはダンテがいる、といった風に、いわば各国を代表する作家の名を一人挙げてみた時に、さてフランスは? と問うてみれば、これはなかなか難しい問題だ。17世紀ラシーヌの戯曲は、フランス語の中でももっとも美しいと時に言われる。けれども同時代のデカルトの哲学こそは、現代にまで続く「近代人」の精神のありようを根本的に決定したのではなかっただろうか。18世紀は多くの哲学者を輩出し、近代化への動きを押し進めると同時に、人間存在のありようを深く追求した。ルソー・ヴォルテール・ディドロといった面々の誰一人とて、決して他の者に「劣って」いるようには思われない。19世紀はもっぱら小説の時代だった。今の私達にもっとも馴染みのある時代とも言えるだろう。ではもっとも優れた小説家は誰か。スタンダール・バルザック・ユゴー・フロベール・ゾラ。まさしく「巨匠」と呼ぶべき彼らの間に優劣をつけることは、もはや各人の趣味によるしかないと言うべきだろう。20世紀にも多くの小説は書かれ、ヌーヴォー・ロマンが一世を風靡したが、同時にこの世紀は批評の時代であった。レヴィ・ストロース、ミッシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ロラン・バルト、人類学、哲学等の文学以外の領域との多様な関わりの中で、文学批評もまた飛躍的な発展を遂げたと言えるだろう。
そしてこれだけの名前では、フランス文学のほんの一面でしかないように、私達フランス文学を専攻する人間には、しみじみ思われてくるのである。16世紀の詩人ロンサールなくしてフランス語は存在しえただろうか。ラブレーの機知と諧謔は、現代の作家も到底及ばない桁外れなものを持っている。コルネイユやモリエールの劇作は今もフランスでは絶えることなく上演され、フランス人の知性・感性に大きな影響を与え続けているだろう。挙げればきりが無いのでここまでにするけれど(あと一人、プルーストの名をぜひ挙げておこう。今日本でもっとも研究者の多い作家の一人でもある)、質・量の両面においてフランス文学は世界有数の、本音を言えば世界唯一の、至玉の宝庫である。汲めど尽きせぬ泉であり、一人では征服しきれぬ大海である。
あなたの興味・関心、ひいては魂を魅了してやまない作家の名前は、きっと「フランス文学」という一冊の本の中に記されているだろう。その名に出会い、その名とともに文学部で三年間を過ごすことで、きっと多くのものを得ることが出来るはずだ。そしてその付き合いは文学部を卒業したあとも引き続く。まだ見ぬ恋の相手を想像してみるように、生涯の「魂の伴侶」を想像してみれば、きっと誰もが密かな期待と興奮を、感じるに違いない。改めて、フランス文学研究室というところ
現在、大阪大学フランス文学研究室は、演習室・研究室・学生控室、および各教員の部屋で構成されており、どの部屋も書物に溢れている。講義は演習室ないし、文学部の他の教室で行われ、演習はもっぱら演習室で行われる。その部屋の小ささに初めは驚くかもしれないが、高校や一般教養の授業とは違い、講師と学生とが面と向きあう演習の場では、密度の濃い充実した時間が流れる。学生控え室では、授業のない時間に学生達が集い、おしゃべりし、おやつを食べ、他研究室では飲めない美味な紅茶・コーヒーを楽しみ(これが当研究室の密かな自慢)、親密で和やかな雰囲気に溢れている。授業時間割は、他ページをご覧になって頂くことにし、まだ文学部の授業風景をご存知ない方に、少しばかりその雰囲気をお伝えしよう。
例えば2004年度、木曜1限に行われた柏木教授の「フランス文学演習」においては、ルソー『告白』を講読した。大テーブルを囲む学生は15人程度。その日の担当者はテクストの音読から始め、翻訳、そして可能な範囲での解説を要求される。細部に渡って教師が解説すると同時に、各学生が意見を交わしあい、正確な読解を志すと同時に、その魅力を追求することも忘れない。1時間半の授業で扱うのは1ページか2ページ程度だが、テクストを熟読することの面白さと難しさとを十分に感じ取ることが出来る時間だ。
阪大仏文には外国人教師としてアニェス・ディソン氏が在籍している。教育法を学んだ彼女の授業の評判は高く、他専攻の学生の参加も多い。授業は全てフランス語で行われ、日本語はご法度だけれどもご心配なく。丁寧な解説によって、参加者誰もが十分な理解を得られるように配慮されている。火曜1限の「フランス語学演習」では、新聞記事や雑誌の広告、ビデオなどの様々な教材を利用しながら、フランス語で自分の意見を述べる練習をする。月曜5限の「フランス文学演習」では、おもに20世紀の文学作品を取り扱いながら、テクスト読解の方法を学ぶ。黄昏時に流れる流麗なフランス語の美しさに心奪われる瞬間。仏文専攻の誰もが経験する至福の時だと言えるだろう。
授業は他にも色々あるが、あとは実際に体験していただくのを待とう。いずれの授業も内容豊かで、大いに学ぶところがあるはずだ。
最後に、ぜひフランス文学研究室へ
もしもフランス文学専攻への進学を考えているならば、ぜひ一度研究室へ足を運んでほしい。助手または学生の誰かが、喜び勇んで迎えるはずだ。フランス語の学習に自信の持てないという者も多いだろう。それ関しては、我々みんな始めは(今も?)そうでした、とお答えしよう。大学へ入ってからフランス語を初めて学ぶ人は多い。誰もが同じ条件でスタートし、そして実際のところ、皆がどうにかこうにかやって行けるもののようである。
もしあなたがフランス文学の作家を1人大好きだったとする。あなたはきっと翻訳で、その作家と出会ったのだろう。言うまでもなく、しかしその作家はフランス語で、その作品を書いたはすだ。もし、より深くその作家を、その作品を知りたいと思うなら、是が非でもフランス語で読まなければならない。
たとえば日本の俳句の英訳を、あなたも目にしたことがあるはず。きっとあなたは感じただろう。「これでは本当の俳句は分からない」と。何故か。五七調のリズム、十七文字の短さ、読み終えたあとの余韻といったものが、日本語という言語の中に含みこまれたものであるから、それが日本語という言葉の体系に密接に結びついているからに他ならない。同じようなことは当然、外国語の作品にも言えるはずだ。フランス詩の詩句の持つ味わいは、結局のところフランス語でしか分からない。それは簡単に習得できるものでないのは本当だ。けれどもし、あなたが一目惚れした相手が外国人であったなら、あなたがきっと相手の言葉を知りたいと願うように、そしてその時には困難など見向きもしないように、がむしゃらにフランス語にかじりつけば、きっと成果はあるものである。
なにもみだらに「言語ナショナリズム」を吹聴するつもりはないし、翻訳という営みの重要さも十分に承知している。フランス語だけが外国語でないのは、英語だけがそうでないのと同様に、よくよく分かっているつもりだ。それでも一言、言っておこう。フランス語は美しい言語であると。かつて永井荷風は言った。「自分はフランス語を口にする時無上の愉快を覚える。」
ぜひ共に、フランス語を、そしてフランス文学を学んでみよう。
大学院進学希望の方へ
大学院への進学を希望されている方へのご案内文学部の大学院というところ
文学部を知らない者に、文学部の大学院を説明するのは難しい。文学部の大学院とはその程度に、一般の社会からは縁遠い場所だと言えるだろう。一般に文科系の学問では理科系とは異なり、大学院への進学は研究者を目指すことを、ある程度まで前提としている。修士課程を修了後、就職する者ももちろん存在するが、文学部の修士号は、はっきり言って就職活動で有利に働くことが、ほとんど無い(まったくではないと、思いたい)。脅すつもりは毛頭ないけれども、文学部の大学院への進学を考えている者には、ある種の覚悟が必要となるだろう。
文学部、および文学部の大学院にまつわる世間の認知度の低さに、それでもめげることなく文学を志す人間の、眩いばかりの尊さを賞賛したい。高度資本主義経済が幅を利かす現代社会、不況の今日においては一層、文学部への風当たりが強いことを、文学部に在籍する人間で知らない者はいない。大学の場においても業績評価を重視しようという傾向は、それ自体批判すべきものではない。しかしいたずらに目前の結果ばかりを尊重する、極めて資本主義的な姿勢と、文学部の存在とはほとんど両立不可能だといっても過言ではない。(てなこと言ってるから文学部はいかん、という意見も世の中にはありますけどもね)
文学研究とは、過去を尊重する営みだ。私達は歴史に面と向かい、時代の流れにともすれば埋もれてしまいかねない、過去の人びとの業績を救い上げ、これを正当に評価し、位置付けることで、今ある私達の拠って立つ基盤を明らかにしたいと願っている。バイオテクノロジーは産業と直結する。しかし文学研究はそのような意味では決して物益をもたらしてはくれない。だからと言って文学研究が無用だなどとは誰にも言わせない。私達は人間と向き合う。過去と対峙し、歴史と語り合う。私達は、今ある私達の存在の意義を問うべく、日々の研究を続けている。確かに私達の上げる声は、今の社会にあっては小さいかもしれない。しかし多くの者が日々の流れに翻弄されているかに見える、今のような時代にあってこそ、文学研究の意義は益々重要なものとなっていることを、私達は疑わない。
改めて、文学部の大学院へ進学を考える人達の、意欲を称えたい。
フランス文学研究ということ
大学院では私達一人一人、自分の研究を深めることが一番の目標である。その意味では学部および、卒業論文の延長として、その活動を考えることは間違っていない。しかし卒業論文があくまで個人の努力の達成を意義付けるものであるとするならば、大学院の課程では、それをより普遍性のあるものとし、他者に対してそれを発することが要求されるだろう。研究は、個人の感想ではない。動機がいかに個人的なものであろうとも、それは問題ではない。むしろ優れた研究は、個人的な場所からこそ生まれるものだろう。個人的なところから発された問題意識が、個人を超え、他者に対しても説得力を持つ時、それは研究の名に値するものとなる。それは既に個人の領域を超えた、社会的といってもいい問いかけであり、その一つの回答である。フランス文学研究に限って言うならば、まずはテクストの正確な読解が、研究を堅実かつ有意なものに至らしめる、必要不可欠な前提であろう。丹念に辞書を紐解き、逐一原典に当って確認し、そのテクストの書かれた背景を理解することは、自分の論理を展開するためのいわば準備段階に当る。たとえば、一台のロケットを華々しく打ち上げるためには、その背後に表からは見えない、多くの技術者達の努力が隠れているはずだ。
そのために必要な書籍・辞書の類は仏文研究室に揃っている。各人の目的に応じて必要な書物は異なるから、個人の負担はもちろん必要だが、図書館での学外貸借等を利用すれば、およそ必要な資料は手に入れることが出来るだろう。また仏文科のスタッフはその都度、助言を与えてくれるはずである。
阪大仏文学研究室では、各院生が年に2回、「研究発表」として個人の成果を発表する場を与えられている。教員、および他の院生の前で、自分の研究結果を公表する。自分の意見を人前で話すよい練習の場であると同時に、教師の助言は言うまでもなく、他者の意見を広く聞き入れる機会でもあり、研究活動を続けるために重要な場である。
改めて研究ということについて触れよう。私達はいったい、フランス文学の何を研究しようというのだろうか。繰り返すようにその動機は様々であろう。しかし恐らく誰もに通じることは、歴史を問い、人間を問おうとする姿勢であるだろう。百年も二百年も前に亡くなった者の遺した一冊の書物には、今なお私達に向かって問いかけをやめない言葉が詰まっている。その言葉に首肯するにせよ、異議を唱えるにせよ、同時に私達は自らのうちに問いを抱え込む。そのように考える私の判断は一体どこに依拠するのか。彼と私との相違はどこにあるのか。あるいは、私と、私とは全く無縁であるはずの異国の作家との接点はどこにあるのか。
言いかえれば、私達が作品に問うと同時に、私達自身が作品に問われることになるだろう。ことは確かにフランス文学に限らない。しかしとりわけフランスという国において、この、人間を問おうという姿勢こそが、そのあまりに長い伝統を貫く一本の太い縦糸のように、脈々と流れる水脈のように、その根底に位置することもまた疑いえない事実である。フランス文学研究の意義は、倦むことなく繰り返される問いの内にこそ存在すると言えよう。
阪大仏文へようこそ
難しいことばかりを並べていささか恐縮している。実際の私達が日々まなじり吊り上げて息巻いているわけではないということを、急いでお断りしておこう。学部紹介にも記したように、阪大仏文研究室はいたって和やかな空気に満ちている。誰もが自分の研究に熱心なのは言うまでもない。しかし柏木教授の言葉を借りれば、文学研究とは「よりよい人間になる」ためのものである。思えばフランス文学の伝統の内には、存在への鋭い追求の背後に、いつでも人間に対する飽くなき希望と、限りない賞賛との思いが込められている。文学研究を通して私達もまた、そのような思いを日々新にしたいと願っている。他ページでも紹介しているように、現在の阪大仏文のスタッフは柏木教授(バルザック)、和田助教授(プルースト)、ディソン講師(現代文学全般)の三名から成る。また阪大には他に言語文化部フランス語科があり、随時文学部での授業を担当して頂いている。2004年度は春樹教授による古フランス語に関する講義、北村教授によるボードレール『悪の花』の講義、高岡教授によるラシーヌに関する講義が開かれた。また大阪外語大より木内講師にフランス語学の講義を、大手前大学より小林講師をお招きし、19世紀の作家ネルヴァルに関する講義をして頂き、広範なフランス文学の領域を視野に収めている。あなたがフランス文学の何に興味を抱くにせよ、現在の仏文スタッフはそれに応えるに万全だと言えよう。
授業の様子に関しては学部紹介もご覧になって頂きたいが、たとえば月曜2限、柏木教授による「フランス文学作品研究演習」においては、あまり読まれることのない、18世紀詩のアンソロジーを題材に、テクストをより正確に深く読み解くことが求められる。当日の担当者はみな戦々恐々としているが、教室に満ちる緊張感が病みつきになり、毎週この授業を心から楽しみにしている者もいるとか。断っておけば柏木教授は厳しいばかりのお人ではない。その人柄はいたって温和・友好的であって、かつまたその博識には誰もが舌を巻くほどである。緊張漲る演習の場に、しばし笑いが巻き起こるのも本当である。
博士(後期)課程に在学の学生は、機関誌Galliaへ寄稿することができ、貴重な発表の場となっている。ガリアは主に院生が編集作業を行うが、昨年度(2003年度)43号を発刊、査読制を敷くことで、質の高い雑誌作りを目指している。また阪大文学部機関誌である「待兼山論叢」への寄稿の機会もある。
博士(前期)課程2年間、および後期課程の3年間は、長いようで短い。文学に限らず学問の道は長く険しいものだが、阪大仏文を修業して、現在大学教員を勤めている者は10名を超えている。その他高校を始めとした教職に就いている者も多く、また前期課程終了後、公務員・一般企業に就職し、活躍中の者も多い。
率直に言えば大学での就職状況は厳しいのが現状だが、先のことは分からない。今、あなたがフランス文学を研究してみたいと考えるなら、迷わず仏文研究室を訪れて頂きたい。志を同じくする者達が、きっとあなたを快く迎えるはずだ。ここでは誰も悲観などしていない。たとえ風当たりが強くとも、各人が自らの仕事に自信と誇りを持っている証拠だろう。時に真剣にテクストに取り組み、時には阪大坂下の某中華料理屋(格安絶品、詳細は仏文研究室にお問い合わせを)で、ビール片手に激論を戦わす、わけでもなく和やかな酒と美食に酔いしれる。ここでは誰もが充実した日々を送っている。今の世の中、いや実際にはいつの世にあっても、本当に自分の好きなことに打ち込んでいる者の数は少ない。フランス文学研究室の扉はいつでも開かれている(夜は閉まるけど)。何度でも繰り返そう。
ともに、フランス文学を学ぼう。