アフリカから焼畑を再考する



<山刀を用いた焼畑の伐採風景>




1 なぜ、アフリカの焼畑なのか

 日本における焼畑のイメージは、ネガティブなものにせよポジティブなものにせよ、いくぶん固定的で偏ったものが多い。例えば、山間地の斜面でアワ・キビ・ヒエなどの雑穀を中心に栽培するものであること、森林を焼き数年で放棄する粗放的な農耕であること、熱帯では森林火災や森林減少の一因となっていること、人口増加によって森林破壊を引き起こすこと、そして、グローバル化した現代社会のなかで消えゆく運命にある過去の農法であること、などである。逆にポジティブなイメージとして、自然と調和した循環的農法として語られることも多い。
 小稿では、アフリカの焼畑を主な事例として、これらのイメージの妥当性を検討しつつ、焼畑の本質とは何かを再考したい。右のような固定的なイメージを批判的に検討するために、アフリカは格好のフィールドである。例えば、アフリカでは焼畑の多くは斜面ではなく平地で営まれている。これは、アフリカがなだらかな卓状の大陸であり、モンスーンアジアのように急峻な山地と沖積平野の占める割合が多くないことによる。日本を含むモンスーンアジアでは、沖積平野の耕地はより土地生産性が高く環境に適合した水田によって占められるため、ほとんどの焼畑は斜面でおこなわれているが、だからといって焼畑が平地よりも斜面に都合の良い農法というわけではない。ユーラシア中央部~東部で栽培化されたアワ、キビ、ヒエなどの作物も、アフリカの焼畑のレパートリーには存在しない。
 また、「焼く」というイメージについても、日本の焼畑のほとんどは火入れを伴うものであったことや「焼畑」という語の普及によって、焼畑に欠かせざる行程とみなされることが多いが、後述するように、アフリカをはじめ世界の焼畑には火入れを伴わないものもみられる。これについてはConklin(1954)やRuthenberg(1980)、福井(一九八三)など様々な焼畑研究者が繰り返し指摘するように、焼畑は火入れよりもまず、耕作期間以上に長い休閑期間をとることが不可欠の要素である。英語では「シフティング・カルティベーション(移動耕作)」と呼ばれることはもとより 、日本の焼畑においても地方名をみると必ずしも「焼く」という語が含まれるものではない。
 「焼畑」という語のイメージに伴う別の副作用もある。一九九○年代後半を中心にマスメディアでも盛んに報じられた東南アジアの森林火災は、その原因の多くはプランテーション開発の火入れ地拵えなどであって焼畑とは無関係なものであったにもかかわらず、「焼畑の延焼による火災」とされた 。焼畑は、古くは「人口増加によって森林破壊がすすむ」という単純なモデルによって、近年では右のような森林火災の主因論によって、環境破壊の一因とされてきた。その影響は現在でも続いており、東南アジアでもアフリカでも、森林保護のために焼畑を禁止する法や政策が存在しているのはこれらの見解を認めた上でのものである。しかしこの見解は実は根拠の疑わしい濡れ衣である可能性が高い(Fairhead and Leach 1996; 1998) 。
 政策によって禁止されるにせよ、農法の変化や過疎化などの間接的な要因にせよ、「消えゆく農法」という焼畑のイメージも、おそらく多くの日本人がもつものであろう。赤カブという優れた商品作物によって今も盛んに生業としての焼畑がおこなわれている温海地域などを例外として、かつての焼畑地のほとんどが山林におきかわった日本の現状をみれば無理もない。日本では、スギ・ヒノキなどの木材が焼畑以上の経済価値をもつことによって焼畑は衰退したが、その木材も経済価値を失って山村は過疎化し、焼畑の復活は少なくとも当分のあいだ期待できそうにない。東南アジアではまだ焼畑は広くおこなわれているが、政府による焼畑の禁止や、化学肥料や除草剤を用いて常畑化・商品作物化することなどによって、焼畑面積は減少傾向にあるようだ。また、焼畑がおこなわれている地域でも、チェーンソーを使うなど化石燃料を用いた省力化が進行している地域も多い。南米では主に先住民によって焼畑が今もおこなわれているが、人口比ではきわめて少数派である。
 これに対してアフリカではまだ広大な地域で伝統的な方法による焼畑がおこなわれている。アフリカでも常畑や水田はもちろんあるが、湿潤熱帯アフリカでは焼畑が現在でももっとも広範囲におこなわれている。焼畑が今でも盛んなのは、アフリカが他の地域に比べて遅れているためであろうか。アフリカで今後市場経済化、グローバル化がすすむにつれて、焼畑も衰退していくのだろうか。本章の最後にもう一度この問題に戻るが、小稿でそれに確実な答えを与えることはできない。ただ、アフリカの焼畑が、かつての日本やモンスーンアジアの山間地におけると同様、環境に適応したきわめて合理的な農法であることに間違いはない。焼畑がどのような環境において合理的たりうるのかを考えるにあたり、現役で焼畑をおこなう人々の営みをみることのできるアフリカは、事例としてこの上ない。
 冒頭の「焼畑のイメージ」に戻って、粗放的という表現について考えてみよう。確かに福井(一九八三:二三八)のいうように、この言葉は農耕の進化の前段階にある劣った農法であるかのような印象をもち、誤解を受けやすい。しかし、同じく福井の指摘する「労力や資本投下の少ない農業」という含意をこの粗放的という言葉がもつとするならば、それは焼畑の本質をついた言葉であると筆者は考える。後述するように、焼畑は、夏雨型の湿潤地域で効率的な食糧生産をおこなうために最も優れた農法なのである。粗放的農法とは、いいかえれば高度に省力化・効率化された農法ということである。焼畑の休閑や集落システムを含め、焼畑の多くの側面は高度な効率性によって説明することができ、それが人々が焼畑という農法を選択する最大の理由であり、「自然との調和」や「循環的」といった側面は、(それが我々にとってどんなに重要であろうと)いわば副産物にすぎないと筆者は考えている。
 次節以降では、以上の諸問題について詳しく検討する。事例として、エチオピア西南部の森林に居住する焼畑民マジャンギルを中心にとりあげる 。まず、マジャンギルの焼畑の全体像を示すとともに、火入れを伴う焼畑と伴わない焼畑について検討する。第三節では、労働生産性とリスク分散の問題を検討し、第四節では焼畑がなぜ移動を伴うのかという問題について、マジャンギルの焼畑と集落移動の歴史的検討を材料として述べる。そして最後に、焼畑とは何かという問題に戻るとともに、焼畑の将来について述べる。



<焼畑の火入れ>




2 マジャンギルの焼畑と「焼かない焼畑」

(1)森棲みの焼畑民マジャンギル

 アフリカの焼畑は、年降水量が多く乾季の短い地域を中心におこなわれている。具体的には、コンゴ盆地を中心とする赤道アフリカと、リベリア、ギニア、コートジボワールなどを中心とする西アフリカの森林地域、そしてエチオピア西南部からスーダン南部にかけての森林地域などである。タンザニアやザンビアなどアフリカ東南部の乾燥疎開林地域でも焼畑がおこなわれてきたが、これらの地域では現在では鍬を使った集約的なマウンド耕作による常畑が主流となりつつあり、焼畑は周辺化している。現在でも焼畑がおこなわれている地域の多くは年降水量が一五○○ミリ以上の湿潤地域で、熱帯林が広がる地域である。乾季が長く乾燥度が高まるほど牧畜の比重が高まり、鍬を用いて耕起する常畑農耕が卓越するようになる。
 図1は、アフリカのウシの飼養頭数を国ごとに示したものである。これをみると、ウシの少ない地域と森林が卓越する地域がよく重なっていることがわかる。ウシはアフリカの広い地域で歴史的・文化的にきわめて重要な家畜として知られるが、ツエツエバエの生息地域である湿潤熱帯林ではウシの牧畜が困難であった。ウシに固執する人々はサバンナで牧畜と耕起を伴う農耕をおこない、そうでない人々は森に入り焼畑や狩猟採集を生業としたのである。
 エチオピア西南部の森林域に棲むマジャンギルも、そうした人々の典型である。草原が卓越し人口稠密なエチオピア高地と、牧畜や漁撈の卓越する低地のサバンナにはさまれたエチオピア西南部のおよそ一万平方キロほどの森林にもっぱら棲み、総人口は三~四万人と推定される(図2)。この森林地域は赤道西風がエチオピア高原にぶつかって雨を降らせる地形性の湿潤林であり、年間一七○○ミリ前後の降雨があり、乾季(十二~二月)の間にも一定の降雨がある(図3)。高地の定住農耕民や低地の牧畜農耕民がウシに高い価値をおいているのに対して、森棲みのマジャンギルは伝統的にウシやヒツジなどの家畜をもたず、焼畑を中心に森林動物の狩猟や蜂蜜採集によって生業をおこなってきた。後述のように、一九八○年代から政府の政策を受けて大きな村に定住するようになったが、それまでは森林を伐開してわずか数世帯の核家族で構成される小さな集落を形成しつつ、比較的頻繁に集落を放棄し移住していた(Stauder 1971)。
 マジャンギルの言語は相対的に孤立しているが、南方に隣接するサバンナに棲むスルマ系の諸集団と同系統のものとされる。これらの隣接グループと共通するいくつかのクラン(氏族集団)名をもっており、マジャンギルと他のスルマ系諸集団は祖先を共有する可能性が高い。マジャンギル自身も自分たちは南方から森にやってきたという伝承を持っていることからも、おそらく歴史上いつかの時点に、あるいは断続的に、サバンナから森へ移住した集団がエスニックアイデンティティを形成したものと思われる。サバンナのスルマ系諸集団の多くは牧畜を主生業としていることを考えると、マジャンギルもサバンナにいた頃から現在のような焼畑を営んでいたわけではなく、移住した森林環境に適応した結果であろう。実際に、サバンナのスルマ系グループを研究してきた福井(私信)によると、二○世紀後半に北方農耕民への略奪を繰り返しつつテリトリーの拡張をおこなってきたスルマ系集団は、草原から新しいテリトリーである疎開林に移住・定着すると牧畜ではなく焼畑を生業とするようになっていたという。

(2)マジャンギルの焼畑システムと「焼かない焼畑」

 マジャンギルの営む農耕は、主として三つの種類の畑に分類できる。一つは乾季に伐採し、主として火入れによって整地する焼畑、二つ目は雨季に伐採・播種し、火入れを伴わない「焼かない焼畑」、そして三つ目が五~九月頃に必要に応じて造成し播種や植え付けをおこなうサツマイモやゴマなどの単作畑である。「焼かない焼畑」というトリッキーな言葉は、前節で述べたような「焼畑」という語のもつ問題点を喚起するためにあえて用いている。サツマイモ畑は畝立てして植え付け、連作されることも多く、焼畑というカテゴリーの外に属するものといえる。ゴマ畑は毎年必ずつくられるものではない。以下では、前二者の焼畑についてその農法を略述する。焼畑の基本的な道具は山刀と掘り棒であり、掘り棒は必要が生じた時にその場で灌木を伐って先端を山刀で削る、ものの数分で即席につくられるシンプルなものである。高木の伐採が必要な成熟林の焼畑では、これらの道具に加えて斧が用いられる(写真1・2)。
 焼畑経営の基本単位は夫婦であり、マジャンギルの世帯は基本的にシンプルな核家族である。焼畑を営む世帯に小規模な核家族が多いのは、継承すべき財産もなく複雑な親族システムを維持する必要性が低いためである。焼畑の作業は男女の分業によるため、配偶者がいない成人はきょうだいや親子などで男女のペアをつくる。伐採は男性がおこない、播種から収穫までは女性が担う。火入れは基本的には男性だが、女性がおこなうこともある。伐採対象となる森林は、過去にその土地を伐採したと記憶される場合には緩やかな所有の観念が存在する。焼畑の伐採の記憶が残っていない場合でも、狩猟や蜂蜜採集のテリトリーとして繰り返し利用していたりする場合には、その土地の主であるとみなされる。そのような主がいない土地は誰のものでもなく、誰でも伐採したり採集テリトリーとして利用することができるが、焼畑がおこなわれる土地の大半は過去に伐採された二次林であり、一定の休閑をへて循環的に利用されている。一度伐採されたことをもって所有者となるというのは、焼畑のもつ特徴をよく表すものである。焼畑で最も困難な労働は成熟林の伐採で、二次林はそれに比べると伐採は容易であり、若い二次林ほど伐採にかかる手間は少ない。したがって、一度伐採された休閑林は焼畑用地としての価値が高いということになる。
 乾季に伐採される焼畑は、成熟林を伐採するものと二次林を伐採するものがあり、しばしば一つの世帯が成熟林の焼畑と二次林の焼畑を同時に伐採する。右に述べたように、二次林の方が伐採が容易であるため、二次林の伐採面積が大きいのが普通である。成熟林と二次林が同時に伐採されるのには理由がある。一つには、成熟林は伐採に時間がかかり、乾季のうちに十分な面積の焼畑を開くことがしばしば困難になるためである。したがって、成熟林の焼畑は小面積であるばかりでなく、高木の多くは伐り残され日射量も少なく、また乾燥に時間がかかるため火入れが十分にされないことが多い。だから成熟林の焼畑は薄暗く、巨木の樹幹がごろごろしており歩くのも困難である。火入れが全くなされないままにイモの植え付けがなされることも珍しくない。このような耕地内の状況では、多くの日射量を要求する雑穀類の栽培は向かないので、タロイモやヤムイモなどが主に植え付けされる(写真3)。
 これに対して二次林を伐採した焼畑では、晴天が続けば伐採後数日で火入れが可能になり、燃え残りも少なく比較的きれいに整地することができる(写真4)。過去の焼畑で繰り返し伐採されているので、伐り残された高木も少なく日当たりも良い。このような焼畑では主にモロコシやトウモロコシなどの穀類が栽培される。成熟林と二次林が同時に造成されるもう一つの理由は、このようにそれぞれ異なる作物の栽培に適しているため、同時に二種の焼畑を造成することによって様々な時期に作物の収穫が可能になることによるものである。穀類は製粉した後に練り粥やインジェラ(穀物粉を水に溶いて発酵させ薄焼きにしたパンの一種)として肉や野草とともに食され、イモ類はそのまま茹でて主食とされ、一年を通じて異なる作物が食卓を飾ることになる。
 掘り棒で点播された後は、鳥獣害防除のための見張りを除けば収穫までほとんど仕事はない。見張りの作業は時間としては長く、見張りをしなかったらしばしば作物に壊滅的な被害をもたらしかねないものだが、多くの場合は畑で炊事をしたり音楽に興じるなど、めいめい他の仕事をしながら過ごす(写真5)。次節で述べるように、伝統的な集落システムにおけるマジャンギルの焼畑では、焼畑の除草は成熟林・二次林を問わずほとんど必要でなかった。この間に、マジャンギルはもう一つの焼畑を造成する。それが「焼かない焼畑」(マジャンギル語でカテkate)である。これは、雨季の真っ最中にあたる八~九月に伐採される。
 カテは、火入れをおこなわないという他に、乾季に伐採される焼畑とは異なる技術的特徴をもつ。乾季の焼畑では、伐採・火入れの後に掘り棒で点播するが、カテではまずモロコシ・トウモロコシの種子を混ぜて伐採するブッシュに散播し(写真6)、その直後にそのブッシュを山刀で伐採する。数十平方メートルの範囲ごとに散播・伐採し、小規模な播種と伐採を交互に繰り返していく。散播された種子はその後にかぶせられる植物残渣によって保護されることになる、一種のマルチングである(写真7)。マジャンギルは、伐採が全て終わってから数日間をおいて、補充のためにトウモロコシを点播する。
 植物病理学者のThurstonは、このような植物残渣を利用したマルチングによる焼畑を「スラッシュ・マルチシステム」と呼び、中米・東南アジア・アフリカなど世界の湿潤熱帯地域に伝統的な農法としてみられることを明らかにしている(Thurston 1997; 佐藤 一九九九)。Thurstonはこの農法の利点として、土壌水分の保持、土壌侵食の防止、土壌有機物の増加、鳥獣害からの防御、雑草の抑制などをあげているが、焼畑を営む人々の視点からいえば、雨季または小乾季に焼畑造成が可能になることによる、労働と収穫の分散化によるメリットが強調されるべきだろう。Thurstonは中南米に比べてアフリカの報告事例が少ないことを指摘している。小乾季の焼畑はサブ的におこなわれているケースが多いので観察者が等閑視しがちであり、十分に記載がされていないことも多いと予測される。またマルチングはおこなわなくとも、赤道アフリカの焼畑で火入れを省略するケースは珍しくない 。湿潤熱帯地域では、乾季に伐採する焼畑であっても雨季入りのタイミングをしばしば見誤り、焼却に失敗する。カテのような、あらかじめ火入れを必要としない技術の採用は、湿潤熱帯の特徴により高度に適応した焼畑の形態であるといえる。

(3)樹海に浮かぶ「サバンナの島」

 火入れが焼畑にとって必ずしも不可欠な要素ではないことを述べたが、逆に、焼畑民の生業にとって火入れは焼畑以外にも重要な意味をもっていることにも注意すべきである。湿潤熱帯に暮らす焼畑民の多くは、焼畑以外でも火を有効に用いて植生をコントロールしている。
 マジャンギルの森の中には、集落や焼畑地以外にサバンナ植生がパッチ状に点在している(写真8)。これらの多くは丘陵地の尾根や斜面などにみられる。筆者は最初、森の中に点在するサバンナはかつて焼畑集落があって、放棄された後に植生がシーアクライマックスとして残されたものではないかと考えていた。しかし、乾季のある夜、蜂蜜採集に同行して村に帰る途中で、ある集落の近くの山が真っ赤に燃えているのをみた。聞くと、自然の火ではなく集落の誰かが火を放ったのだといい、乾季になると必ず山焼きをおこなうのだという。その後いくつかの集落をまわって同じような「サバンナの島」が多く存在することを知り、それらは毎年の火入れによって森林化せずに草原が維持されているのだとわかった。それらの中には、過去に集落が放棄された後に火入れが繰り返されている場所もあったが、多くは集落や焼畑の立地には適さない場所だった。
 「サバンナの島」を人為的に維持する理由はいくつかある。一つは屋根を葺く材料であるチガヤの採取のためである。森に棲む彼らにとって屋根材のチガヤは壁などの木材以上に貴重な資源であり、一九九○年代後半まで現金のやりとりがほとんどおこなわれていなかった村内でも、現金で売買されていた 。集落内にもチガヤの畑をもつ人々もいるが、それらは畑の主がチガヤを村に持ち帰って移植したものである。しばしば劣化した植生の代表のようにいわれるチガヤも、湿潤地域では大切に保護される資源なのである。
 他にも、狩猟動物を集めることや、蜂蜜採集の蜜源となるサバンナの樹木を保護することなどの理由がある。マジャンギルはダイカーやブッシュバック、ウオーターバックなどの哺乳類を主な狩猟の対象とし、これらには森林を好むものもあるが草本類の豊富なサバンナの方がより大型の動物が集まりやすい。蜂蜜採集に関しては、彼らは森林・サバンナの両方に様々な蜜源植物が存在し、それぞれ開花期が異なるため、環境が多様であるほど一年を通して蜂蜜を得ることができる。  西アフリカの森林・サバンナがモザイク状に分布する地域では、人々がサバンナに囲まれた集落域の中で意図的・非意図的な樹木の保護
をおこなうことで、「森の島」が形成されていることが報告されている(Fairhead and Leach 1996)。より湿潤なマジャンギルの森では、逆に森林の中に「サバンナの島」がつくられているのである。いずれも、環境を人為的にコントロールすることによって多様化し、資源をより豊かに利用できるようにする営みであるといえる。「サバンナの島」に限らず、マジャンギルの森の中で集落に近い場所に彼らにとってより有用な樹木が多く分布するのは、それらの樹木が原生林に生育しにくいことを考えれば、彼らの森への働きかけの結果である可能性がある。
 またマジャンギルは乾季になると森の外側に広がるサバンナに出て積極的に狩猟をおこなう。サバンナ地域一帯は、乾季になると野火があちこちに広がり焦土と化すが、これは人為的な火入れの結果である。これをみた人は深刻な自然破壊であるとみなすことが多いが、草本の新芽がいっせいに芽吹く一、二ヶ月後に来てみればその認識が誤っていたことに気付くであろう。動物相の豊かなアフリカの典型的なサバンナ景観は人為的な火入れの関与したものであり、九州山地の野焼きと同様に継続的に手入れのされた景観なのである。森林やサバンナが人間の資源採取の場である限り、火は焼畑に限らず景観と生活の維持に重要な役割を果たし続けている。



<「焼かない焼畑」の播種>




<覆い被さった植物残渣の間から芽を出すモロコシ・トウモロコシ>




<発芽後しばらくしてから点播により再播種をする女性>




3 なぜ焼畑を選ぶのか ─労働生産性とリスク分散─

 冒頭に、「自然と調和した循環的農法」という焼畑の性質はいわば副産物にすぎない、と書いた。これは言い過ぎかもしれないし、焼畑民の知恵に対する敬意を欠いていると思われるかもしれない。筆者がこのような言い方をするのは、焼畑がいかに環境(夏雨型の湿潤地域)に適応した効率の良い農法であるかを強調したいためである。筆者はこれが焼畑の本質であると考える。環境に適応したというのは、行為者にとって最も利益が大きいということで、土地が十分に得られる状況においては少ない労働で最大の利益が得られるものがそれにあたる。世界の類似した環境に類似した農法が普及したのはこのためだし、人々が効率を求めた結果が焼畑なのである。筆者は普段大学の講義で学生に対して、もし君たちが自給的な農業で生きていくことになり、家族だけで広大で豊かな農地を与えられたら、きっと水田や常畑ではなく焼畑を選ぶことになるだろう、と述べてから焼畑の説明を始めることにしている。
 これを具体的に考えるにあたっては、焼畑の労働生産性を示したいくつかのデータが参照できる。例えばRappaport (1971)は、ニューギニアのツェンバガの焼畑の生産性を自ら収集したデータに基づいて検討している。それによれば、労働として投下されたエネルギーに対するアウトプットの量は一六・四倍に達し、アメリカ合衆国におけるトウモロコシ農業の生産性をさえ上回る、としている。ツェンバガの焼畑は脱穀などを必要としないイモ類の栽培を中心としており、焼畑の中でもきわめて労働生産性の高いものであるといえる。
 東南アジアについては、Dove (1985b)が自ら収集したデータを含むいくつかの実測値に基づいて、カリマンタンの焼畑による陸稲栽培とジャワ島の水田稲作との生産性比較をおこなっている。これによると、土地当たりの生産性ではジャワの水田が約五○倍も生産性が高いが、労働時間当たりのアウトプットで比較すると、八八~二七六%も焼畑が上回った。これらの結果は、焼畑が行為者の視点からみて常畑や水田に劣らない効率的な農法であることを示している。
 筆者は一九九三年から九四年にかけて、マジャンギルの村で三世帯をサンプルとして焼畑にかかわる年間労働量のデータをとり、Doveのカリマンタン焼畑のデータと比較した(佐藤 一九九五; Dove 1985a)。その結果、除草労働の少ないマジャンギルの焼畑は、カリマンタンの焼畑よりも一世帯あたりの年間労働量がずっと少ない と同時に、マジャンギルの焼畑労働の年間季節配分にきわだった特徴が認められることがわかった。カリマンタンの焼畑は年に一度の伐採によるため伐採作業のある乾季に労働量が集中するが、マジャンギルは畑の造成期が分散しているため労働量も年間を通して比較的均等に配分されている。Dove(1985a)も指摘するように、焼畑は労働効率が良い反面労働力が生産量の制限要因になることを考えれば、マジャンギルの焼畑システムはより融通性の高い生計戦略であるということができる。
 また、個々の焼畑造成は気象の年変動によって常に失敗(不作)となるリスクを負っている。年に数度造成され、乾季の焼畑も成熟林・二次林に応じて多様な作物が栽培されるのは、こうした不作のリスクに対するバックアップシステムとなっている。これらは、多様な混作を基本とするアフリカ湿潤熱帯の焼畑に広く共通する特徴であるといえる。
 焼畑の最も不可欠な要素である休閑についても、行為者からみた効率性・合理性によって説明することが可能である。既に多くの焼畑研究者が指摘するように、焼畑が一~四年程度の耕作の後に放棄され休閑に入るのは、第一に雑草の侵入によって耕作に多大な除草労働が必要になること、第二に土壌肥沃度の低下である。この二つの要因のコンビネーションによって、同一の場所で除草の労をいとわずに耕作を続けるよりも新たな耕地の伐開に労働量を投下した方がより効率が良いということになる。除草にかかる労働量と森林の伐開に費やす労働量の多寡が入れ替わるぎりぎりの時点で耕地を休閑に切り替えることがより効率の良い焼畑経営であるということになる。  実際の焼畑を観察する限り、よりクリティカルな要因は第一にあげた雑草問題である。百瀬(近刊)は東南アジアの焼畑の広範な観察に基づいて、この点を簡潔に説明している。モンスーンアジアの湿潤地域における焼畑伐開後の遷移は、まず最初に一年生草本が繁茂し、続いてチガヤなどの多年生草本がはびこる。一年生草本は播種前の伐採と焼却によってある程度生育を抑えることができるが、多年生草本は完全な除去がきわめて困難である。乾季の長い相対的に乾燥した地域であれば、耕起などの方法によってこれらを除去することは相対的に容易であるが、湿潤地域では最も良い解決法は休閑ということになる。休閑後は植生の遷移によって多年生草本はやがて消滅する。したがって、焼畑と常畑のいずれかが卓越するかは、第一に気候条件によって決まる。百瀬は中国西南部や東南アジアの焼畑と常畑の分布が降水パターンの違いによくあてはまることを示している。
 百瀬はさらに、多年生草本が消滅するまでには長い年数がかかることが多いが、生育の早いキク科の灌木やタケ類がみられる地域では、短期休閑が可能になると指摘する。キク科の灌木やタケはより短期間で休閑地の樹冠を閉ざし、多年生草本を消滅させるからである。これらは妥当な説明で、筆者も基本的に同意する。マジャンギルの焼畑は一九八○年代以降、政府の定住化政策の受容によって集落と耕地の配置が大きく変わったことにより、とくに一九九○年代後半以降に短期休閑化が急速にすすんだが、短期休閑の焼畑は以前はあまりみられなかったキク科の灌木がパイオニア樹種として繁茂することによって短期休閑化が可能になっている(八田・佐藤 二○○○)。短期休閑化による土壌肥沃度の低下によって作物の収量は落ちている可能性があるが、少なくとも人々がそれを顕著に感じるほどではない。
 百瀬はまた、水田や常畑の適地であるような土地生産性の高い地域が政治的中心となり人口が集中するが、焼畑の適地のような土地生産性の低い場所は辺境になるという説明はなりたつが、逆に人口が独立変数となるような説明は「原因と結果をひっくり返した」もので受け入れがたいとしている。山間地とデルタのようなマクロ地形からみれば確かにその通りかもしれないが、政治や経済の中心地に労働生産性を犠牲にして人口が集中する現象は、焼畑が営まれる地域でもそこかしこにみられる。
 マジャンギルは、一九七○年代末期に当時の社会主義政権の政策によって定住化し、集落は行政村となって大規模化した。住居が村の中心部に集中することによって、かつて分散していた多くの焼畑地が放棄されて森林化する一方で、定住集落をとりまく焼畑が短期休閑化することになった。定住化・集住化を受け入れた背景には、村の中心に学校や診療所などの行政サービスが設置されたことに加え、キリスト教を同時に受容し世界観を変えたことなどがある(Sato 2002)。集住化によって住居に隣接した焼畑地が得にくくなった場合、彼らのとりうる選択肢は二つある。住居と焼畑地の近接性をあきらめて遠隔地に畑を開くか、あるいは休閑を短期化するかである。いずれの道も、労働生産性を犠牲にすることになる。マジャンギルは短期休閑化の選択肢により大きく傾いた。住居と畑の距離も、かつてのように住居の周りに畑があるという配置ではなくなったので距離は多少遠くなったが、村の人口が千人に達するようになった現在でも、三○分以上離れた場所に畑を開くことは滅多にない。これには、見張りの便宜も関連していると思われる。遠くに畑を開く場合にも、単独で焼畑を伐開することは滅多になく、いくつかの世帯が集まって一か所を伐採する。単独で遠隔地に焼畑を造成すると、高確率でヒヒやグリーンモンキー、イノシシの甚大な被害をこうむることになる。
 マジャンギルの労働生産性に関する再調査はおこなっていないが、観察する限り短期休閑化によって焼畑にかかる労働時間が増加した可能性は高い。まず、畑の除草が必要になった。かつては少なくとも数年間は休閑されたブッシュを伐採していたため、雑草の繁茂を放置していてもトウモロコシやモロコシのような丈の高い作物の生育に障害はなかったが、一~二年の休閑の後に伐採されることの多くなった現在では収穫までに二回程度の除草が欠かせないとされる。もう一つは、成熟林の伐採面積が減少し、二次林の割合が高まったことである。このこと自体は逆に伐採にかかる労働量を軽減することになるが、イモ類に比べてモロコシやトウモロコシの主食としての摂取量が以前よりも高まった。穀物は製粉が必要で、重労働なため、女性の労働量はかつてよりも多くなっていると推測される。
 以上のように、焼畑の最大の利点であり本質的な特徴である労働生産性も、政治経済的な状況によって犠牲にされる場合がある。こうした状況はアフリカだけでなく、オセアニアでもよく似た状況が報告されている(中野 一九九五:一○四─一○五;Nakano 1992)。先述のDove(1985b)は、ジャワの水田稲作が焼畑よりも労働生産性が低いにもかかわらず人口の集中させていることの説明として、政治権力が人口の集中を促したためであると推論している。ジャワの歴史においてこの議論が妥当かどうかは筆者にはわからないが、今日のアフリカの辺境で起こっていることを観察すると、政治経済的な誘因によって土地利用が規定されたり変容されることは珍しいことではないし、歴史上にも絶えず生起していただろうと思われる。その理由は右に挙げたような行政サービスや市場で入手できる物質的な誘因の他に、治安維持のような国家のもつネガティブな力もあり、これが次節で扱う課題である。




<獣よけに木琴を演奏する>




4 なぜ焼畑民は移動するのか ─生態的要因か社会的要因か─

 焼畑は畑の移動だけでなくしばしば集落自体の頻繁な移動を伴う。焼畑は少なくとも伐採から収穫まで数ヶ月を要するため、一部の狩猟採集民のように季節的に頻繁な移住を繰り返すことはない。アフリカや東南アジアでは狩猟採集民と焼畑民の交換経済がみられ、狩猟採集民は農耕を知識として知っていても本格的に農耕を採用することはほとんどない。逆に焼畑民は狩猟採集も重要な生業の一つであり、ジェネラリスト(掛谷 一九九八)であると指摘されるが、生業の時間的な配分を見る限り、労働投入量の過半は農耕に費やす。このことはマードックの『エスノグラフィック・アトラス』をみてもよくわかる(Murdock 1981)。生業の相対的な重要度を十段階で示した民族ごとの一覧をみると、アフリカのほとんどのグループでは農耕は五以上の重要性を占めるか、ゼロまたは一でほとんどおこなわれないかのいずれかであり、二~四程度の中途半端な比重を占めるグループは少ない。農耕の比重が二~四にランクされるグループの多くは、残りの仕事を牧畜に費やしている。半農半牧は成立しても、狩猟採集が主で焼畑が従という生業形態は成立しがたいのである。これは、農耕が一定期間の定住を必要とするのに対して、狩猟採集はこまめな移動を必要とすることによると考えられる。
 しかし、数年から数十年のスケールでみると、焼畑民は頻繁に集落を放棄し移住していることが多い。もちろん、定住度のきわめて高い焼畑民もいる。日本の山村はこれにあたるであろう。しかしアフリカ、南米、東南アジアの湿潤熱帯地域では、集落の定着性が低く移住を頻繁に繰り返す焼畑民の事例が多くみられる。彼らはなぜ移住を繰り返すのだろうか。
 考えられるのが、土地の肥沃度が衰えるために集落を放棄し次の場所に移住するという、生態学的要因による説明である。しかしこれに対しては、人類学者のCarneiro(1960)が半世紀も前に批判的な検証をおこなっている。彼はアマゾンの焼畑民クイクルに関する定量的なデータに依拠して、人口当たりに必要な土地の面積を算出し、二年半の耕作と三○年の休閑のサイクルを維持しつつ定住するための人口の上限が少なく見積もって五百人を上回るであろうと結論している。マジャンギルのケースでも、かつては十~二十人程度の小集落で暮らしていた人々が定住化後に一九九○年代前半ですでに三百人を超え、二○○○年にはついに千人を超えても定住して焼畑をやっているのをみると、カーネイロの推定は無理なものではないと筆者は考える。焼畑民が一般に成熟林よりも二次林の伐採を好むことからも、同一の地域に定着することに理があるように思われる。
 では、焼畑集落はどんな理由で放棄されるのだろうか。筆者はかつて、マジャンギルが開拓した痕跡・記憶をもつ集落跡(現集落も含む)を特定してマッピングし、各地の集落の開拓・放棄・再開拓の歴史を復原したことがある。その結果、マジャンギルは森の中で親族関係や友人関係をつてに個人的な移住を頻繁におこなうとともに、そのような個人的な移住とは異なる集落成員一斉の移住、すなわち集落放棄が過去数十年のうちにも何度も起こっていることがわかった。集落放棄の理由が一つに特定できない移住も多かったが、明らかになった八七事例の内訳をみると、集落に住む儀礼的リーダーの死がきっかけとなったもの、親族集団間の抗争にからむもの、他民族からの侵略を原因とするもの、呪いをきっかけとするものなど、そのほとんどは社会的な軋轢を理由とするものであった(佐藤 二○○五)。
 儀礼的リーダーは、政治的なリーダーの存在しなかったマジャンギルの社会では、平和を維持するために不可欠な存在であり、より強い霊的な力をもったリーダーは地域の平和を維持する力をもつと信じられ、そうしたリーダーのいる集落の規模は大きくなる傾向にあった。ところが逆にリーダーが死ぬと、その地に災いがもたらされると信じられていたために、大規模な集落放棄を引き起こすことがあった。このように儀礼的リーダーは離合集散するマジャンギルの集落動態に大きな影響力を及ぼしていた。  儀礼的リーダーに平和維持能力が求められるのは、裏を返せばマジャンギルの社会が社会不安に常に悩まされていたことを意味する。殺人などをきっかけとするマジャンギルの氏族集団どうしのトラブルも、集落放棄を引き起こす要因の一つだった。警察の存在しない伝統的なマジャンギル社会では、殺人被害者の親族による加害者への報復が主な解決手段となる。この時は加害者本人だけでなくその親族もターゲットとなりうるため、ひとたびトラブルが発生すると村の多くの成員が当事者となるのである。このような時、争いに巻き込まれるのを恐れる人々は村を棄て移住することになる。このほか、隣接する他民族からの襲撃が繰り返され、集落が放棄されるケースも珍しくなかった。こうした争いを原因とする集落放棄は定住化を受け入れてから激減した が、一九六○年代以前にはきわめて頻繁に発生していた。焼畑集落の放棄のほとんどは、統治権力の不在による社会的な原因によって起こっていたのである。
 こうして移住を繰り返すマジャンギルの集落は、森の中でどのような分布を示すのだろうか。図4は二○世紀以降に集落が立地した場所を示したものである。この図からわかるように、集落の多くは森林内の河川に近い場所に立地している。当然のことであるが、水の得にくい場所には集落は立地せず、したがって周辺の森が焼畑のために伐採されることもない。もう少しミクロスケールでみると、集落周辺の焼畑地もそのほとんどは小河川に近接した場所につくられており、したがって集落の近くであっても過去に伐採の記憶のない成熟林が意外に多く残されているのがわかる(図5)。
 図4の集落地点から離れた地域の多くは、過去に伐採された記憶のない成熟林が広がる地域であり、林内には胸高直径が二メートル以上もある巨木がごろごろしている。また、図4の集落地点の大半は一九三○年代以前には既に開拓された過去をもつ場所であり、過去数十年のうちに伐開された集落のほとんどは、過去に放棄された集落跡に再び戻った「二次林の開拓」であった。過去に集落があった場所は水が得やすく焼畑にも適した場所であるから戻っていくのである。儀礼的リーダーの死による移住の場合、その死の記憶が薄れた頃(数十年の後)に戻っていくことになる。こうして、移住の理由は社会的な軋轢によるものだが、結果的に集落は数十年のスケールで循環的に開拓と放棄・再森林化が繰り返されることになる。副産物としての集落循環といえる。
 統治権力の不在に起因する社会的な軋轢は、集落の移住パターンだけでなく集落形態にも影響を与える。他民族からの襲撃を避けるためにとりうる集落形態は二つのパターンが考えられる。一つは自衛のための集住である。アマゾンの森に棲む焼畑民のヤノマモの集落はこの典型であり、集団間の抗争が繰り返される彼らの集落は、防御のための円形の柵の中に形成されている(Chagnon 1997)。ボルネオの森林に棲む焼畑民のロングハウスも、防御的な目的で集住形態をとるに至った可能性が高い。エチオピア西南部においても、サバンナに囲まれた川辺林に棲む小集団のコエグは、やはり自衛のために柵で囲まれた円形の集落に集住している。
 防衛のためにとりうるもう一つの形態は、集住とは逆に分散して森に棲むことである。定住化を受け入れる前のマジャンギルの集落形態がその典型であった。この場合、襲撃に際してはいちはやくそれを察知して逃げることがその対策となる。敵よりも森を熟知する彼らは、襲撃に気付くと他民族の知らない森の踏み跡をたどって避難し、場合によっては待ち伏せによる反撃をおこなう。筆者はマジャンギルたちの過去の語りを聞く中で、この反撃の手口をいくつか教えてもらった。また、一九九三年に森の中を友人の案内で旅していた時に、実際に踏み跡をたどって森の奥へと逃げるマジャンギルの女性たちに出くわしたこともある。この時は敵はエチオピア暫定政府軍であったが、町に一番近い村に武装した政府軍の車が入ったという報を聞いてすぐに当座の食糧だけをもって森の奥へと逃げていく途中であった。州の境をめぐって暫定政府と民族間で紛争が起こっていた時のことであったが、この半年前には別の地域のマジャンギルは森に侵攻してきた暫定政府軍を待ち伏せし、一○○人以上もの政府軍の犠牲者を出している。彼らにとって、まさに森は「天然の要塞」であり、森のなかにいる限り戦いの地の利は彼らの側にある(佐藤 二○○四)。
 マジャンギルにとって、定住化の受容とは何だったのか。詳細はここでは省くが、社会主義政権が成立した一九七○年代以降、政府の力が初めてマジャンギルの森を含む低地の辺境にまで及んだ。それ以前のエチオピア帝政は低地の辺境部の領土を全く掌握しておらず、高地の商人による奴隷狩りの危機にさらされ、二○世紀半ばに奴隷交易がようやく衰退した後にも民族どうしの紛争が絶えなかった。右に記したようなマジャンギル氏族集団どうしのいざこざでも、政府の治安維持機構が存在しない状況では当事者どうしの解決にゆだねられるしかなかったのである。社会主義時代に警察の力がようやく森に及ぶようになり、先述のような政府・民族間の衝突もまれに起こったものの、それ以前と違ってトラブルを政府の調停にゆだねることが可能になった。初めてエチオピア国家の国民となった彼らには、この点で定住化を受け入れる誘因があったのだといえる。こうした統治をめぐる問題は世界の辺境に住む人々にある程度広くみられるものであり、辺境に住む焼畑民にとって、焼畑という生業をその社会構造的な特徴も含めて把握する必要があることを示している。



<山刀を持ち、腰に火おこし棒を身につけて森に出かける>




5 おわりに ─焼畑の未来─

 アフリカの焼畑を主に参照しながら、火入れの意味、労働生産性やリスク回避の点から焼畑の最も根底にあると考えられる特徴をさぐり、さらに焼畑集落の立地と移動の現象から、焼畑民の社会的な特徴を再考した。
 焼畑の農法としての特徴について、その労働効率の良さを強調し、湿潤熱帯という環境に最も適応した合理的な農法であると述べた。日本や東南アジアでは焼畑の伐採にチェーンソーが使われるようにもなり、いっそう効率の良い生業となった。北タイの村では焼畑に除草剤が導入されて、常畑に変わった事例もみられるようになった(増野 二○○七)。効率の良い農法を選択した結果が焼畑なのだから、さらに効率を求めた結果焼畑が消滅するというのも自然な流れなのかもしれない。
 今は現役で盛んにおこなわれているアフリカの焼畑の将来はどうなるだろうか。これまで世界の各地で起こってきたように、都市化や産業化の進展によって焼畑地域が過疎化したり、現金経済の浸透によって食糧自給をあきらめてしまうことは、あり得る。二○年近く焼畑の村をみてきたが、今世紀に入ってからの社会経済変容のスピードは以前に比べて格段に速い。村内でも現金のやりとりが当たり前になり、かつては隣人間の贈与によって分配されていた食糧も、現金を介するようになった(佐藤 二○一○)。村にはまだ電気はないが、次に村を訪れる時には、おそらく携帯電話も使えるようになっているはずである。日常の食糧を自らの畑からとってくる代わりに店で購入するようになるのも、もう一歩のところまで来ているのかもしれない。こうした急速な変容の背景には、内戦などの影響で長く停滞していたアフリカ経済が近年になって上昇傾向を示すようになったことにも関連するものかもしれない(平野 二○○九)。
 マジャンギルの人々が仮に食糧自給をあきらめた場合、購入する作物はおそらく常畑や水田で化学肥料を大量に投入してつくられた、近代品種のトウモロコシやコメであろう。化石燃料に依存した近代農業は、将来にわたって末永く続けることができるだろうか。筆者には大きすぎてとりつく島もない問題である。しかし、化石燃料に支えられた農業が行き詰まり、湿潤熱帯やアジアの山村に暮らす人々の手にいったん衰退した農業が再び戻ってくるような時代が来ることがあれば、おそらくそこで採用される農法は焼畑であろう。


 


 (『焼畑の環境学』所収「アフリカから焼畑を再考する」より:図表・文献リストは省略しています)

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