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Zysk先生来訪記 by Ayomukha N. Inoue


(管理人註)サンスクリットの表記については今回に限り京都ハーヴァード方式に従っていますのでご了承ください。

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2004年6月11日阪大インド学仏教学研究室に、コペンハーゲン大学のKenneth G. Zysk先生が来訪された。以下に、当日の出来事を報告しておこう。

言うまでもないが、Zysk先生はインド伝統医学の研究家である。このたび先生は、次の日に京都(同大)で開かれる科学史学会のために来日(関西入り?)されたらしい。同じ領域を専攻している山下勤さんが、この日阪大で講義(サンスクリット文法)があり、先生をはるばる石橋まで連れて来てくださったのである。

しばしご歓談♪さて、この日お二人は11時台に榎本先生の部屋に見えたらしい。「らしい」というのは、報告者が別の用事のために、12時30分ごろになって研究室に着いたからである。おおかた待兼山会館だろう、と見当をつけてのこのこ行ってみると、案の定であった。榎本先生、Zysk先生、山下さん、富田さんの四人で、食後のコーヒーも済んで談笑中であった。四人とは予想外の少人数である。堂山さんがいないが、京都でなにやらの研究会だそうだ。河崎選手もいない。それはそうだ、演劇人河崎はこの日芝居の初日であった。報告者が着く前には、コペンハーゲンにいらっしゃるZysk先生が、CPDがお金も人も足らずにちっとも進んでいない、とおっしゃっていたそうである。誰か手を貸してくれる人はいないか、と言っていたそうな。
















いつもながら太っ腹の榎本先生に感謝しつつ、すぐに研究室にもどる。もどりながら、報告者はトテツモナク下手な英語を搾り出しつつ、サンスクリットで苦行者を形容するのによく使うkRzo dhamanisaMtataというフレーズについて質問を試みる。余程発音が悪かったようで、榎本教授室でMahaabhaarataのテキストを開いてお目にかけてやっと理解してもらえた。おかげでひとつカシコクなれたので、私としては良かった。

榎本先生、Zysk先生、山極先生、山下先生さて榎本教授室から研究室へ移り、自然Zysk先生の目は蔵書の方を向く。先生が手を伸ばしたのは、書架の上に文字通り棚上げされた、カタログ類であった。この一角には、近年だれも手を触れずにきた(井狩先生が一冊を数年間借りていらしたが)。紐で縛って横積みにしてあるのだから、その扱いが分かろうものである。長身のZysk先生は、舞い落ちる埃をものともせず、インドで出版された写本カタログ類を熱心に物色された。後刻、必要箇所のコピーを取って差し上げた。これは確かによろこんでいただけた。















さて、13時過ぎからZysk先生に講話をしていただく段取りになっている。しかし、新たに加わったのは、私の少し前に来たという畑氏のみ。山下さんは13時から講義なので、聴衆は榎本先生を入れて四人であった。これはいくらなんでも寂しいよ、同志諸君。英語に自信がないのかもしれんが、もっと面の皮を厚くしなくちゃ。題目は``Buddhism and Medicine''である。あらましは次のとおり:アタルヴァヴェーダに見るような、呪術的な観念に支配された医術と、ずっと後(100BC-AD400)に成立する医学書(BhelasaMhitaa, CarakaS, SuzrutaS.)に記された組織だった人体観との間にはきわめて大きな隔たりがある。この間隙を埋めるmissing linkが、ひとつにはパーリ仏典(特に律蔵大品)に見出される。ここには、薬用物質の初歩的な「分類」や、疾病や治療の個別的記述が残されている。これらと医学書との平行関係は注目に値する。僧院の共同生活の中で体系的医術が育まれて行った可能性があり、もっと後代の``Buddhist Medical texts''にその伝統を窺う。ところで、インド医学の革新にはギリシアローマの医学からの影響が想定できるかもしれない。初期仏典に登場する有名な医師Jiivaka Komaarabhaccaは、伝承によればTakSazilaaで学問を修めたという。TakSazilaaはアレクサンドロスがかつて侵攻した土地である。ヒポクラテスの医学が伝わっていた可能性はありうる。云々云々。報告者は不覚にも未読だが、和訳されている『古代インドの苦行と癒し』と大体同じ内容の話だったらしい。

講話の途中で、やはりこの日阪大で講義がある仏大の山極先生がお見えになった。質疑に入る。先ず富田さんが、大乗仏教が栄えた時代に仏教徒がおこなっていた医学は、律蔵にあるような実際的なものだったのか、請願的な性格や呪術的な傾向をもっていたのかと聞いた。これに対してZysk先生は、エリート的出家者の伝統と民衆レベルの信仰や実践とを区別し、前者では実際的な伝統が継承されていただろう、後者には菩薩信仰に基づく請願的性格の医療が存在しただろうと答えた。次に私が、ギリシアローマの伝統以外にも、インド医学の淵源として、非アーリア人の伝統や初期のサーンキヤ哲学にも注目する必要があるのではないかと発言した。それは良いが、前者について、「インダス文明の外科の水準が高かったという説がありますが」などとやってしまったもので、思い切り浮き上がってしまった。Zysk先生は(内心はともかく)穏やかに、論証可能な範囲で説得力のある話に限定したい旨を噛んで含めるように話された。(サーンキヤよりヴァイシェーシカではないかという感想も)


デカイ一段落して、山極先生は授業に入り、畑君や富田さん、やって来た生野君もそちらへ。入れ替わるようにして山崎守一先生が東京から(!)いらした。榎本先生に用事があったらしい。授業を終えた山下さんも交え五人で、最近できた大阪大学総合学術博物館の見学に行く。私は山崎先生とは初対面だったが、話していてこんなに気持ちの寛ぐ人はめったにいないと思った。博物館長肥塚先生ご自身のガイドで、マチカネワニの化石(一部はさわれます!!)と骨格標本、弥生土器などを見る。Zysk先生は「このワニは淡水に住んでいたのか」などと聞いていらした。肥塚先生についてインド美術の専門家という説明を受けていらしたので、その手の展示物を期待なさっていたのではないかとも思うが・・・。




















集合博物館のあるイ号館を出ると、そのまま山崎先生は新大阪へ。おそるべき身の軽さである。我々は研究室に戻る。この後、畑氏のデジカメで記念撮影。写真をウェブサイトにアップすることの可否を伺うと、Zysk先生は承諾されたが、撮った写真はご自身でチェックなさった。





















2004年6月11日) 


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