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概要
歴史学部門におけるインターンシップの必要性
人文・社会系の多くの学問と同様に、日本の歴史学も近年、問題意識や方法が多様化しているが、それに対応して新たな全体像を把握・討論する方法が整備されていない。それと関連して、研究者が他分野の研究者や一般市民と「他流試合」をする能力が伸び悩みを見せている。しかも、かつての大学院学生・若手研究者がこうした問題に目を開くひとつの経路になっていた塾講師や大学非常勤講師など教えるアルバイトの場が、現在では激減している。 ところが若手研究者が大学教員に採用されたとしても、最初から史学科で専門の授業だけしていればよいポストにつけるとは限らない。多くは教養教育で「やる気のない他学部の学生」に悲鳴をあげたり、人文系以外の学部・研究所等に属して教授会で他分野の同僚とやり合うことになる。筆者の場合で言えば、大学教員歴21年のうち、最初の9年間は地域研究の研究所、外国語学部、教養部で過ごした。
ところで大阪大学の歴史系教員は、歴史学の成果を社会に還元する方法として、高校教科書の執筆に力を入れてきた(日本史の実教出版、三省堂、世界史の帝国書院、第一学習社など)。良い高校教科書は、狭い専門に閉じこもらずに学問全体と社会を広く見回さなければ書けない。 「横断的」と並び「臨床的研究」を唱えた21世紀COEプログラム《インターフェイスの人文学》でも、教科書執筆の延長上で、全国の高校歴史教員を集めて、COEの研究成果をコンパクトに紹介し高校歴史教育に反映させる方法を討議する「全国高等学校歴史教育研究会」を開催した(2003から毎年8月に開催し、高校教員を中心に一部予備校教員や教科書編集者を含め、毎回70〜110名が参加した)。結果は大好評だったのだが、一方で高校歴史教育(一部は中学も)の複雑な実態も浮き彫りになった。 まず教育内容の面で、1999年に公布された地歴科の現行学習指導要領は新しい歴史学と世界の動きを大幅に取り入れており、教科書でも社会史、海域や広域ネットワークの記述など新しい内容がずいぶん盛り込まれたが、教科書執筆者(主に大学教員)も編集者もやはり全体をきちんと見回しきれていないこと、大学入試の保守性などに災いされて、古い記述と新しい記述が混在し、かえって高校生や教員を混乱させ「歴史離れ」を助長している。 もっと全面的に、古い理解と新しい理解の違いを説明し、しかも語句・事項の暗記でなく「像を結ぶ」「背景がわかる」教科書や資料集・指導書等を作らねばならない。一方、直接により深刻な変化をもたらしているのは履修形態の多様化である。「世界史必修」は1年次だけ(1年ではだいたい半分しか進まない。 そこでどの半分を教えるかについて、学校・教員により違いが出る)、2年次以降の地歴は入試用の1科目だけ(入試が面倒な世界史より日本史・地理選択者の方がずっと多い)といった高校が多く、中学校の歴史がほぼ日本史だけになったこと、地理が中高とも全世界を網羅する方式を放棄したことなどと相まって、「世界史も世界地理もほとんど知らない」「逆に日本史を知らない(中学の学習内容を「大学入試に関係ない」と誤解して忘却する高校生は多い)」など、大学入学時の知識は実にバラバラである。
この事態を考えると、高校教員のリカレント教育や、高校の実態にもとづいた大学の教養教育・専門教育や入試制度の改善、要するに「高大連携」のためには、単発のセミナーや出前講義などでは不十分で、より恒常的な討議・共同の場が必要である。「全国高等学校歴史教育研究会」参加者からも、こうした意見が強く出されていた。そして大学院学生・若手研究者をこれに参画させれば、歴史学全体や歴史学と社会の関わりを考える絶好の訓練の場になるだろう。 高校教員も大学時代は狭い専門を持っていたはずだが、高校教育では世界史や日本史の全体(しばしば両科目、それに地理や現代社会も)を教えねばならない。大手教科書を使った丸暗記教育しかできない教員もいるが、意欲的な高校教員はしばしば大学教員より広く、歴史学の動向を見ている。 しかも教える技術も工夫している。大学院学生に限らず、大学関係者には大いに刺激になる。こうして史学系各専門分野共通の大学院演習の扱いで月例研究会を開催し、学生をRAとして運営に当たらせるとともに、その他の出席学生も単位が取得できるという「大阪大学歴史教育研究会」の計画が開始されたのである。
大阪大学の取り組み
もともと「放し飼い」よりは「熱烈指導」で知られてきた大阪大学の史学系各専攻では、大講座化や大学院重点化以来、文学研究科共通の改革以外にも、いくつか独自の刷新の試みを実施してきた。それは大きく、
- 各専門分野内のカリキュラムと指導の体系化:
たとえば筆者が所属する東洋史学(専門分野)では全学部学生・大学院学生・教員が全員出席する「合同演習」を開設し、それぞれの論文の中間発表のほか、学年によって違ったレベルの論文紹介、研究発表、入門講義などの義務を課している。 中央ユーラシア、中国、東南アジアないし海域アジアの3分野を擁する阪大東洋史では、この合同演習(内容だけでなくプレゼンテーションについて厳しく指導される)がまず、狭い専門を超えた他流試合の訓練になる。 その他の科目(漢文など史料講読、外国語文献の講読〔一部は英語で授業をおこなう〕、一般の演習など)も、系統的に積み上げる学習が可能なように、学部の各学年、博士前期課程、同後期課程で履修科目やノルマをそれぞれ区別することに努めてきた。 同時に、大学院学生の出身・経歴・希望する進路の多様化に配慮して個別指導を強化し、他大学出身の大学院学生に必要に応じて上記学部科目の一部を履修させるなどの方策もとっている。また西洋史学(専門分野)では、同様の科目配列の系統化の一環として、演習を「論文作成演習」「ディベート演習」「リサーチ演習」に区別している。
- 専門分野を超えた授業・研究会活動の導入:
既成学問分野に縛られない「横断的研究」を目指す21世紀COEプログラム《インターフェイスの人文学》(歴史系は2002-03年度「シルクロードと世界史班」、2004-06年度「世界システムと海域アジア交通班」という形で参加)とも関連しながら、新しい視角や方法論に関する大学院向けリレー講義「歴史学のフロンティア」(科目名は歴史学方法論講義)を2003年度から毎年開講しているほか、 「海域アジア史研究会(メンバーを英語圏の国際会議でつぎつぎ発表させている)」「グローバルヒストリー・セミナー(原則英語でおこなう)」などの研究会を連続開催し、専門分野や国境を越えた研究活動に、日本史、東洋史、西洋史ほか諸分野の学生を巻き込んでいる。
などに整理できる。このほか、日本史・考古学ではフィールド調査や自治体関係の仕事、東洋史・西洋史では海外留学や海外フィールド調査など、「現場に出る」活動にも、積極的に学生を参加させて成果を上げている。「ソーシャルネットワーク型人文学教育の構築」で実施することになった歴史教育研究会は、このような一連の取り組みの中から浮上した構想である。
大阪大学歴史教育研究会
冒頭で述べたように、この研究会は、大学院における研究者養成を高校歴史教員のリカレント教育と結びつけた取り組みで、語句や事項の暗記でなく「像を結ぶ」「背景がわかる」高校歴史教育の材料の提供、そのための教科書や資料集・指導書等の検討を題材としている。
研究会の発足にあたっては、「全国高等学校歴史教育研究会」で中心的に協力していただいた高校教員、とくに京阪神地区の教員に呼びかけた。その結果、2005年11月から研究会をスタートさせることができ、2006年末までに11回の研究会を開催した。
密度の濃い議論を保証するため自由参加制はとれないが、高校教員は勤務上、いかに常連でも毎回出席は期待できない一方で、テーマを見て新たに参加を希望する教員・編集者等もあることから、メンバーを完全に固定することはせず、事前の参加申し込みを条件とするセミ・クローズドのシステムを採用した。 プログラムが年度途中にスタートしたため当初は不可能だったが、2006年度にはこれを大学院演習の扱いとして、大学院学生の単位取得を可能にした。また2006年8月の「第4回全国高等学校歴史教育研究会」は、21世紀COEプログラムと「大阪大学歴史教育研究会」が共催する形をとり、100名強の教員、教科書編集者等が参加した。
月例研究会は、第2回から2本の報告を並べる方式をとり、原則として1本は専門研究者が研究内容や学界の動きを要約したもの、もう1本を高校・予備校教員の実践報告としている。また、質疑や情報交換は月例研究会だけでは不十分なので、ホームページとメンバーのメーリングリストも開設した。 ホームページには研究会の案内、簡単な記録(履修している学生に作成を割り当てている)のほか、各報告の配布資料のうち著作権等の問題がないものもPDFファイルで掲載している。
研究会は期待通り、高校側・大学側双方に強い刺激を与えている。高校側で組織される研修会、出前講義などで高校教員が専門研究者の講演を聴くことはあっても、それはおおむね単発で成果が残りにくい(講演する側も相手のレベルがわからず適切な講演ができないことが多い)。阪大へ行けば、毎月さまざまな分野の専門家の、しかも毎年8月の研究会等で高校教員の「手強さ」を心得た上での報告が聞ける。 また、全国的な歴史教育の研究組織への参加率、都道府県ごとの教員研修組織の活動状況などは、地域ごとのばらつきが大きく、他地域の教育実践に関する情報交換が密におこなわれている地域はごく限られている。これも阪大に行けば各地域の経験が聞ける。 大学側も、年1回の夏休み研究会では加わる教員・学生数と集まる情報量が限られていたが、月例研究会を開いた結果、より多くの教員・学生がこれに関与し、認識や考えを深める機会をえている。 中堅以上の大学教員にとっても、自分が専門としない分野・テーマ(中には高校以来知識が増えていないテーマすらある)の最新の研究成果がコンパクトな形で聞けるのは実に有り難い。
そこで、2007年度以降もこの研究会はぜひ継続したいと考えているが、そこではいくつか考えておくべき課題がある。たとえば、
- ここまでのところ、多くの分野・研究テーマを取り上げることを優先したため、学び討論した成果を形にする方法が決められていない。 関連する阪大教員が執筆中(改訂作業中)の高校教科書に成果を反映させるのはもちろんだが、それ以外に副読本、解説・指導書、用語集等の編纂、入試問題の検討など、具体的な課題を定めて作業をする必要がある(高校教育の現況を踏まえた大学用の教科書編纂なども、もちろん考えられる)。
- 学生の参加の質がまだ十分でない。RAや履修登録をせずに出席している者(大学院は修了要件単位数が少ないのでこういうことがよく起こる)を含め、参加学生が10名弱という人数は丁度よいのだが、運営の手伝いは積極的でも、報告・討論は聞くだけ、という参加者がまだ半ばを占める。学生にも報告の機会を与えるなどの方策が必要であろう。
これらについて世話役・RA間で議論し、具体策を含んだ計画を立てて臨むことが、次の発展のカギであろう。