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『待兼山論叢』第9号(1975)以後 美学篇

『待兼山論叢』第9号美学篇(1975)

海北友松における人物画体(武田恒夫)
Qu'est-ce que l'Art Primitif?(Shigenobu Kimura)
幻の「詩学」第2巻(当津武彦)

『待兼山論叢』第10号美学篇(1976)

音楽と音楽学(山口修)
シェリングの芸術哲学(神林恒道)
フィラレーテと15世紀イタリアの文化―ローマ聖ピエトロ大聖堂扉(若山映子)

『待兼山論叢』第11号美学篇(1977)

伝ドナテルロ作聖母子浮彫(ボストン美術館蔵)について(辻成史)
芸術の遊戯論的考察(石田正)
「従三十三天降下」図の図像(肥塚隆)

『待兼山論叢』第12号美学篇(1978)

禁欲の芸術家―カフカ『或る犬の探究』論(石光輝子)
Über das Vergängliche in der Musik(谷村晃)

『待兼山論叢』第13号美学篇(1979)

直感的判断力と理念(大森淳史)
矢田地蔵縁起絵巻の筆者に関する一考察(瀧尾貴美子)
モンゴルのオルティンドー(中川真)

『待兼山論叢』第14号美学篇(1980)

志度寺縁起絵考(南谷敬)
A Note on the Illustrations in Some Non-Greek Tetraevangela Manuscripts(辻成史)
シェリングにおける自然と芸術―カントとの関連において(岡林洋)

『待兼山論叢』第15号美学篇(1981)

リュベンスにおける最終審判と地獄墜落―ミュンヘン、アルテ・ピナコテク蔵の三作品をめぐって(玉田純子)
パプア・ニューギニア、イアトモイ族の〈Wavinlangut〉分析―民族音楽学の一方法の提示として(山田陽一)
悲劇的感情の所在―S. K.ランガー『感情と形成』の演蔚観をめぐって(中司淳子)

『待兼山論叢』第16号美学篇(1982)

歴史的民族音楽学の必要性と可能性―とくにオセアニアの研究例に依拠した考察(山口修)
アナトリアの初期農耕文化と偶像―チャタルフユック出土偶像の意味(丹司正子)
The Front Panels of Maximian's Chair,Ravenna―Style and Composition(浅野和生)

『待兼山論叢』第17号美学篇(1983)

創造と認識―フィードラーの芸術理論をめぐって(浜田拓志)
ベートーヴェンの交響曲分析試論―第1番(作品21第1楽章(中川真)
Ibo族の仮面における色彩の象徴性(吉田憲司)

『待兼山論叢』第18号美学篇(1984)

芸術と規則(犬伏雅一)
能における幽玄(柴田勝二)
The Temporal Structure of Pictorial Narrative Representation: A Methodological Essay(Part One)(Tsuji Shigebumi)

『待兼山論叢』第19号美学篇(1985)

芸術の意義―フィードラーの芸術論をめぐって(斎藤郁夫)
ドイツ表現主義における音楽と色彩(神林恒道)
The Temporal Structure of Pictorial Narrative Representation: A Methodological Essay(Part Two)(Tsuji Shigebumi)
R.シュトラウス“ばらの騎士”をめぐって―1幕の楽曲統一原理(岡田暁生)

『待兼山論叢』第20号美学篇(1986)

ミュートスにおける論理性と反期待性―アリストテレス『詩学』9、1452a4より(戸高和弘)
The Penitence of David in Paris,Bibl.Nat,Cod.gr.510―Iconography and Its Place in Byzantine Manuscript Illustration(Ishizuka Akira)
調性格論序説(樋口光治)

『待兼山論叢』第21号美学篇(1987)

モリエールのドラマトゥルギー(加藤貞史)
清代初期松江の画家顧大申(吉田晴紀)
音楽活動の中心としての演奏―伝達の枠組からの脱却の試み(前川陽郁)

『待兼山論叢』第22号美学篇(1988)

今熊野狭楽の実現―義満台覧の背景をめぐって(天野文雄)
ドストエフスキーにおける美的イメージについて(西村美由起)
J.ポロックのドリップ絵画―生命的な主題をめぐって(仲間裕子)
シラーの美的教育論―「手段」としての美と「目的」としての美の関係(山下純照)

『待兼山論叢』第23号美学篇(1989)

芸術の本質と意義―ニーチェの芸術観への一展望(森谷宇一)
書における線の意味(萱のり子)
天台宗儀礼における座の屏風(鬼原俊枝)
音楽における枠組みと逸脱―ベーラ・バルトークの〈ミクロコスモス〉―第101番〈減五度〉をめぐって(伊東信宏)

『待兼山論叢』第24号美学篇(1990)

室町後期の「翁座」の動向―住吉社御田植神事の猿楽をめぐって(天野文雄)
『ドン・ジュアン』の美の位相(その一)―モリエール研究・3(加藤貞史)
プレ・マリン・スタイル段階における蛸のモチーフの形成と図像学的発展(勝又俊雄)
日本の音楽教育における合唱―柴田南雄の作品を中心にして(永原惠三)

『待兼山論叢』第25号美学篇(1991)

R.オーデブレヒトおよびM.ガイガーにおける美約価値論の問題(高梨友宏)
春日大社蔵競馬図屏風をめぐって(泉万里)
ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画―《アダムの創造》(若山映子)
天神祭における音楽空問の生成と意味―鉦と太鼓の文化的象徴性と意味解釈への試み(朱家駿)

『待兼山論叢』第26号美学篇(1992)

芸術作品におけるリズムと時間(上倉庸敬)
解師伐衰図について(高松良幸)
The Characters of Panthea and Ione in Shelley's Prpmetheus Unbound(Ralitza Konstantinova)
『ブシコー元帥の時祷書』―空気遠近法とその構成をめぐって(小林典子)

『待兼山論叢』第27号美学篇(1993)

機器のもたらす音楽の「近代化」―『一般音楽新聞』にみるメトロノームの完成と普及(渡辺裕)
J. M. W. ターナーにおける伝統と革新(小村みち)
天井から吊るされた帽予掛け―ポップ・アートを中心としたアメリカ現代美術における「物質性」と「観念生」(田中不二夫)
カール・マリア・フォン・ヴェーパー〈ピアノソナタ〉作品24終楽章におけるヴィルトゥオーゾ的なものと形式(白石知雄)

『待兼山論叢』第28号美学篇(1994)

美人と犬(奥平俊六)
ジゼール・ブルレのリズム論―リズムと拍子の関係をめぐって(田之頭一知)
頁珠庵蔵竹石白鶴図試論(錦田稔)
天保改革と大坂の芸能統制―『天保御改正録』所収文書をめぐって(中川桂)

『待兼山論叢』第29号美学篇(1995)

日本とファン・ゴッホ、その序論的考察(原田平作)
藤原定家の「歌つくり」と「歌詠み」について―創造と表現との相違(伊達立晶)
宮芳平と大正期の洋画(堀切正人)
口頭伝承による神楽の詞章―岩見神楽の場合(テレソス・A・ランカシャ)

『待兼山論叢』第30号美学篇(1996)

俳優と観客の対峙―メィエルホリドの観客論(永田靖)
シェリング「悲劇論」の分析(市村俊信)
葛飾北斎筆「神奈川沖浪裏」をめぐって(安井雅恵)
東本願寺の能楽―寺侍宮谷を中心に(小林英一)

『待兼山論叢』第31号美学篇(1997)

意味への飛躍―絵画における芸術経験(三木順子)
ファン・ゴッホとロシア文学―〈夜のカフェ〉、〈アルルの病室〉とトルストイ、ドストエフスキー(圀府寺司)
ジョン・ケージの日本音楽受容―笙のために作曲された作品を中心に(上野正章)
1920年代前半のヴァシリー・カンディンスキー―幾何学的抽象における絵画「空間」をめぐって(清水佐保子)

『待兼山論叢』第32号美学篇(1998)

歴史小説の間テクスト性―島崎藤村の『夜明け前』との関連において(高瑛子)
江戸期の日吉大夫(宮本圭造)
四条河原遊楽図の成立と展開(阿部彩子)
ヨーゼフ・ラスカ(1886~1964)と宝塚交響楽団(根岸一美)

『待兼山論叢』第33号美学篇(1999)

明治五年刊『西洋家作離形』の建築用語(藤田治彦)
藝術作品とハイデガーの世界概念(石黒義昭)
岩倉使節団が見聞した西洋音榮(奥中康人)
聖ニコラオスの聖人伝イコン―聖人伝サイクルにおけるテクストとイメージ(吉松実花)

『待兼山論叢』第34号美学篇(2000)

文学と言語―言語芸術における意味(蔵本典之)
北野恒富筆「道行」について(川西由里)
日本のマックス・ラインハルト受容―小山内薫を中心に(大林のり子)
ミュートスとロゴス(加藤浩)

『待兼山論叢』第35号美学篇(2001)

説法印阿弥陀如来像をめぐる試論(藤岡穣)
自由・創造・生―メルロ=ポンティ『セザンヌの疑劇』より(岩崎陽子)
Festspiel als Festspiegel祝祭鏡としての祝祭劇―ザルツブルク・フェスティバルにおける意義の変容(宮本美紀)
ルーヴル美術館スペイン・ギャラリーにおける「スペイン美術」の形成―テロール男爵による作品収集とスペイン側の対応(宮崎奈都香)

『待兼山論叢』第36号美学篇(2002)

芸術と受肉(上倉庸敬)
冷泉為恭筆「年中行事図」について(宇野干代子)
世阿弥の「鬼」再検―「砕動風」「力動風」の位相の変遷(澤野加奈)
焦点化に関する考察(萩原康一郎)

『待兼山論叢』第37号美学篇(2003)

戦国時代の青銅器に表された山岳狩猟図―自然風景と祭祀活動の図像表現に注目して(龔詩文)
ピカソの《アヴィニョンの娘たち》(若山映子)
1920年代フランスにおける『エスプリ・ヌーヴォー』の位置(千葉真智子)
琵琶武曲《十面埋伏》《覇王卸甲》の版本間における変異性をめぐって(橘田勲)

『待兼山論叢』第38号美学篇(2004)

歴史における美の感性―ひとつのアドルノ論(大橋良介)
近衛篤麿の『蛍雪余聞』にみるミュンヘンの原田直次郎(宮本久宣)
芥川の墨画と文人的風流(高橋奈保子)
様式の交代―村山知義作・演出『孤児の処置』の分析(正木喜勝)

『待兼山論叢』第39号美学篇(2005) [本文PDF閲覧]

明治期の美術工芸論における「嗜好」と「流行」―京都論壇での展開から(平光睦子)
日本の合唱史における―その意義と位置づけをめぐって(山口篤子)
ルーマニア民俗音楽の「性格」をめぐって―エネスク≪ヴァイオリン・ソナタ第3番≫に関するいくつかの論点(伊東信宏)
マックス・エルンスト作≪風景≫(S/M612)について―アメデ・ギルマン著「磁気学と電気学」からの一考察(国吉貴奈)

『待兼山論叢』第40号美学篇(2006) [本文PDF閲覧]

歌舞伎様式の摂取―大正十五年の井上正夫(横田洋)
大宋屏風と馬形障子(金子岳史)
エウリピデス「メデイア」における地と天上―新たな狂気の創造(内田次信)
「生きている生」は、感じとる(春木有亮)

『待兼山論叢』第41号美学篇(2007) [本文PDF閲覧]

ロダンにおける≪青銅時代≫の位置―「面plan」の概念に即して(島本英明)
クスコ司教モリネドの聖堂建設・装飾事業―1673-1699年(岡田裕成)
ウォルター・クレインと日本美術―資料研究序論(田中竜也)
カルロス・ベカCarlos Vega(1898-1966)による/についての記述をめぐるアルゼンチン音楽研究についての一考察(川端美都子)

『待兼山論叢』第42号美学篇(2008) [本文PDF閲覧]

大阪画壇研究補遺―「北野恒冨展」をめぐって(橋爪節也)
引窓の光と陰―「引窓」解釈の歴史を読み解く(多田英俊)
大報恩寺六観音像に関する一考察―十一面観音像と聖観音像におけるの模刻の問題を中心に(山口隆介)
エドワード・バーン=ジョーンスの絵画空間おける平面性(久保美枝)

『待兼山論叢』第43号美学篇(2009) [本文PDF閲覧]

輪廻と諦観―小津安二郎『麦秋』について(上倉庸敬)
新民謡《須坂小唄》にみる中山晋平の作曲理念(齋藤桂)
1937年のパリにおける美術展―「フランス美術傑作」展のナショナリズム(礒谷有亮)
ヴァレール・ノヴァリナの演劇における救済―『激昂空間』の「ジャン」をめぐって(井上由里子)

『待兼山論叢』第44号美学篇(2010)

江戸時代における中国絵画受容の問題―池大雅の款記に見られる「写意」をめぐって(濱住真有)
「役者子ども」のもつ想像力―秋浜悟史『幼児たちの後の祭り』と『ロビンフッド劇』をめぐって(須川渡)
プロクロス『プラトン『国家』註解』第5 論稿の研究(加藤浩)
プラトン『国家』におけるムーシケー論(里中俊介)

『待兼山論叢』第45号美学篇(2011)

文学作品の課題をめぐる解釈の変容─Adalbert Stifterの『晩夏』受容史を起点に(中野逸雄)
戦後放送音楽の「ホームソング」志向と三木鶏郎(輪島裕介)
G・リゲティの《時計と雲》における変容─反復・クラスター・カノン(奥村京子)
ヘルドルプ・ホルツィウス作「マルティン・ヒュロー夫妻の肖像画」─17世紀ネーデルラント商人の結婚政策と肖像画(河内華子)