神戸新聞他 2000年3月31日
前方後円墳成立過程を語るホケノ山
福 永 伸 哉

 ホケノ山「古墳」の埋葬施設の全容がほぼ明らかになった。これまで最古の前方後円墳に始まると理解されてきた特徴の多くが、弥生時代終末期とも呼ばれる庄内式期の墳墓で確認されたのである。しかも、多くの研究者が最古の前方後円墳と認める箸墓古墳を眼前にする大和箸中の地で。
◆大和勢力の主導権
 一九六〇年代以降、墳丘を持つ弥生時代の墳墓の存在が明らかになるにつれて、前方後円墳はある日突然に生まれたものではなく、そこにいたる前史のあることが認められるようになった。ホケノ山はその先駆形態と目される各地の墳墓のなかで、前方後円墳に最も近い存在といっても過言ではなかろう。首長層の共通の墳墓形式を生みだす動きの中心で、大和勢力が主導的な役割を果たしたことを明確にした点に、まずこの調査の大きな意義がある。それは三世紀前半、まさに卑弥呼の時代のことであった。
 年代を示す有力な手がかりが、棺内から出土した画文帯同向式神獣鏡である。不老長生の神仙世界をリアルに描いたこの銅鏡は後漢末年の三世紀初頭頃に製作された可能性が高い。そのいっぽうで、二四〇年にわが国にもたらされたと推定される三角縁神獣鏡は認められない。こうした年代のサンドイッチによって、ホケノ山の築造時期を絞り込むことができるのである。
◆卑弥呼政権と神獣鏡
 この時代には、本州の中西部で長らく祭器として用いられてきた銅鐸が、埋められたり捨てられたりして地上から消えてゆく。二世紀末頃の「卑弥呼共立」を契機に、列島各地の在来の信仰が止揚され、広範囲の首長層を統合するあらたな宗教的枠組みが生みだされたため、と私は理解している。
 ホケノ山における複数の画文帯神獣鏡の存在は、卑弥呼政権によって押し進められたこの宗教変革が中国の神仙思想を取り込んだものであったことを示唆している。
 画文帯神獣鏡は、それまでの北部九州に替わって初めて近畿地方に分布の重心を置いた中国鏡として登場する。京都大学の岡村秀典氏が指摘するように、朝鮮半島北部地域で三世紀前葉に勢力を振るった公孫氏との交渉によってもたらされ、卑弥呼政権の宗教的、政治的戦略の一環として周辺に分配されたと見るのが妥当であろう。公孫氏の滅亡後に、おなじく神仙像をモチーフとする魏晋系の三角縁神獣鏡が求められた必然性もここにある。
◆ホケノ山と箸墓の間に
 墳丘や埋葬の入念さだけを見るなら、ホケノ山を最古の古墳ととらえる見解もでてこよう。しかし、八〇mの墳丘規模、石囲みの木槨、三角縁神獣鏡の不在といった要素は、箸墓以降の前方後円墳とはなお一線を画しているように思われる。
 これに対して、箸墓古墳は墳丘長二八〇m。古墳時代を通じた大王墓の規模のスタンダードと古墳被葬者間の墳丘格差の程度をほぼ確定した点で、やはり時代を画する存在であると認めないわけにはいかない。指呼の距離に相次いで築造された墳墓であるだけに、むしろ両者の違いが持つ意味がさらに明確になったと理解すべきであろう。
 では、ホケノ山と箸墓の間には何があったのか。一つには魏王朝が卑弥呼を「親魏倭王」に册封したという二三九年の出来事があげられる。超大国から倭王としてのお墨付きを得たことは、国内的には他の首長とは次元の異なる政治的地位を主張する十分な根拠にもなろう。そして、いま一つは二四八年頃かと推定される卑弥呼自身の死である。
 亡き首長の葬送に多くのエネルギーが投入されるようになった社会において、倭王卑弥呼の死へいかに対処するか。卑弥呼の権力の継承者が出した答えは、空前の規模を誇る箸墓古墳の築造により、王の死をこえて継続する王権の存在を視覚的に表示することだった。
 ホケノ山「古墳」は、前方後円墳成立に向かうこうした経緯を同時代資料として語る貴重な証人であるとともに、古墳とは何かという問題をあらためて私たちに突きつけたのである。