毎日新聞 2000年10月24日
交易と技術誇った丹後勢力
福 永 伸 哉

 京都府北部の丹後半島は山また山の世界である。半島最大の平地部である中郡盆地でさえ、竹野川に沿った東西一㎞、南北八㎞ほどの手にとるような範囲に過ぎない。しかし、九〇年代以降の発掘調査は、この地域が、弥生中期末から後期(紀元前一世紀後半〜紀元三世紀初頭)にかけて、西日本でも屈指の勢力に発展していたことを明らかにしつつある。そして、先頃発表された峰山町赤坂今井墳丘墓の発掘成果に触れたとき、いよいよ調査の手は絶頂期の丹後勢力の本丸に近づいたという印象を強く持った。
 赤坂今井墳丘墓は、その中郡盆地から海岸部の網野町に抜ける谷あいに弥生後期末に築造された。一辺三七・五m、高さ四mの見上げるような方形墳丘は、山陰や瀬戸内の墳丘墓と違って突出部を持たないが、主丘部の規模で比較すると同時期の墳丘墓の中でも最大クラスだ。貴重なガラスをふんだんに用いた豪華な装飾品が見つかった木棺は、じつは中心の埋葬ではない。墳丘墓の中心部では、内部は未調査であるが長さ七m、幅二mという弥生時代では比類ない規模の木棺痕跡が確認されているというから驚くばかりである。
 山がちな丹後地域がこれほどの墳丘墓を築く大首長を輩出した勢力基盤は何なのか。これを解く手がかりは丹後の弥生後期の遺跡から出土が急増しているガラスと鉄だ。
 赤坂今井墳丘墓で検出されたガラス製品の数は、勾玉約三〇点、管玉約九〇点にのぼるという。弥生時代の一つの棺から出土したものとしては勾玉は最多、管玉も五指にはいるであろう。計一万余点のガラス小玉が出土した大宮町左坂墳墓群、三坂神社墳墓群、美しいライトブルーのガラス釧が副葬された岩滝町大風呂南一号墓などの事例も記憶に新しい。後期にこれだけ多量のガラス製品が見られる地域は北部九州と丹後くらいである。
 鉄器は中期末から顕著になる。九五年には弥栄町奈具岡遺跡で、住居址や堆積土から一〇㎏をこえる鉄片が出土して私たちを驚かせた。この多くは鉄素材から鉄器を製作した際に残った切れ端であるが、もとの素材の一割がこうして捨てられたとすると、製品になった鉄器は九〇㎏以上になる。中型の板状鉄斧で四〇〇個は得られる量だ。後期にも鉄製品が多く出土する状況は続く。弥生時代の鉄器生産は、全体としては質、量ともに北部九州が優勢であるが、丹後地域も侮りがたい存在として急浮上してきたのである。
 鉄とガラスには、素材を大陸から入手し、高温状態を管理しながら製品をつくるという共通点がある。つまり、対外交渉の太いルートと先端技術に関するノウハウが弥生後期における丹後勢力の台頭の原動力になった可能性が高いのである。もちろん、日本海の荒波をこえる航海術が大きな役割を果たしたことも疑いない。
 その供給先を考える場合に、弥生後期の畿内地域、伊勢湾地域で製作されたと推定される巨大な銅鐸が、ともにこの地域にもたらされていることは重要な意味を持つ。近畿以東の集団からのこうした働きかけは、丹後勢力の入手した大陸の鉄素材、ガラス素材が、本州島を南へ、東へと供給されたことを示唆しているからである。弥生後期の丹後地域には、こうした外来物資の広域流通を取り仕切る勢力が存在していたと見るべきであろう。赤坂今井墳丘墓の中心被葬者がこれに深く関与した可能性はきわめて高い。
 弥生時代は水稲農耕の始まった時代である。広い平野を擁する農業生産力豊かな地域の優位性が説かれてきたし、確かにそうした地域も多い。しかし、赤坂今井墳丘墓の調査は、交易と高い技術力によって強大な地域勢力へと成長していくもう一つの社会の姿を浮き彫りにした。いま北近畿タンゴ鉄道がのんびりと走る静かな谷あいに、かくも巨大な墳丘墓が築かれたことの意味を、弥生時代史全体の中で理解する必要を強く感じるのである。