しんぶん赤旗 2001年6月13日
邪馬台国と大和政権に一石─奈良・勝山「古墳」─
福 永 伸 哉

 年輪年代法の成果がまたも考古学に対して大きな問題提起を行った。奈良県纏向勝山墳墓から出土した木製品が、西暦一九九年から一二年程度の間に伐採された木からつくられたものであることをあきらかにしたのである。
 この木製品は、墳墓の周濠内にやや土が堆積した段階で投棄されているので、厳密にいえば、伐採年代が墳墓の築造年代そのものを示すことにはならない。木製品が墳丘上で行われた葬送儀礼用の建物部材だから、伐採と築造の年代が近いだろうという考えも、可能性のある一つの解釈にすぎない。考古学では、三度、四度とおなじ発見が繰り返されることによって、事実関係が安定していくのである。年輪年代法によって古墳出現過程に迫る方法の有効性には疑いはない。さらなる事例の積み重ねを期待したい。
 ◆卑弥呼の時代
 とはいえ、おなじ纏向墳墓群中のホケノ山墳墓では、昨年の調査で出土した画文帯同向式神獣鏡の年代から、三世紀前半に築造されたことがほぼあきらかになっている。今回の勝山墳墓の成果とのいわば「合わせ技」で、この墳墓群が三世紀前半に盛んに築造されていたことはより確実になったといえる。
 纏向墳墓群が位置する大和盆地東南部は、三世紀中葉の箸墓古墳を皮切りに、その後百年あまりの間、わが国でも最大規模の前方後円墳の築造が集中することからみて、初期大和政権の本拠地としての評価は動かない。さらに、ホケノ山、勝山の成果は、初期大和政権の前史もまたこの地で展開していたことを示す重要な証拠となった。年代的にみれば、女王卑弥呼の生きた三世紀の前半において、邪馬台国の主要部がこの地以外に求められる可能性は決定的に低くなったといわざるをえない。
 勝山墳墓の木製品と共伴した土器は、寺澤薫氏によって「布留0式」と名づけられた古墳出現期の様式をもつ。これまでは、箸墓古墳のような巨大な前方後円墳が築造される時期の土器ととらえられてきたが、その実年代が三世紀初頭までさかのぼるとなると、古墳編年の枠組みに根本的な変更を迫ることにもなりかねない。
 上述のように築造年代との関連の点でなお不確定な要素のある木製品の一事例によって、積み上げられてきた精緻な土器研究がすぐに瓦解するとはいえない。しかし、おなじような不整合が繰り返されるなら、「布留0式」のもつ時間幅や土器様式としてのとらえかたを再検討する必要もうまれてこよう。
 ◆古墳とは何か
 今回の各紙の報道でも、「邪馬台国は古墳時代」、「三世紀前半の最古の古墳」という点が強調された。発掘調査の進展によって日々記録が塗り替えられる考古学の醍醐味は伝わってきたが、そこには「古墳」とは何かという本質的な議論が置き去りにされているように思えてならない。
 現在の日本考古学においては、古墳はただ古くて大きな墳墓をさす言葉ではない。古墳とは、大和政権と各地の首長との間に政治的な関係が結ばれたことを示す、きわめて歴史的な存在であり、それゆえに、以後三百年以上にわたって続く時代を区分する名称として用いられているのである。
 私はその意味で、大和盆地東南部に墳丘長二八〇mという圧倒的規模をもって登場し、その後の最高首長の古墳規模のスタンダードをつくった箸墓古墳の築造こそ、古墳時代の開始を画するにふさわしい出来事と考えている。
 もちろん、歴史のとらえ方は多様であってよい。しかし、多様と無秩序は違う。最古の古墳探しは、古墳とは何か、古墳時代とは何か、という議論からたちあげなくてなならないのである。