京都新聞 2001年8月29日
貿易技術立国を図る─丹後の古代再考C─
福 永 伸 哉

 鉄とガラス。丹後地域の弥生時代遺跡を語るとき、もはや欠かせない視点だ。一九九〇年代以降の発掘調査の進展によって、丹後地域は弥生中期後葉から後期(前一世紀〜後二世紀)にかけて、日本列島のなかでもこれら大陸の先進素材をもっとも多く集積した地域の一つであることが明らかになってきた。
 まず衝撃的だったのは、中期後葉の弥栄町奈具岡遺跡において、小さな谷に面した建物址から八sをこえる鉄片が出土したことである。この時期の遺跡の中では日本でもっとも多い量だ。谷の斜面につくられた建物の半分は流失しているから、ほんらい遺跡全体に残されていた鉄の量はこの二倍程度には見積もってもよかろう。
 奈具岡の鉄器生産は、同じくこの遺跡で盛んに行われていた水晶玉製作に使う鉄錐などを作るためのものであったという意見もある。しかし、たとえ玉作りに付随したものだとしても、必要に応じてこれだけの鉄素材を入手できる力があったことのほうをむしろ積極的に評価すべきではないか。
 奈具岡では、素材から製品を作った後の端切れのような鉄片が多い。廃棄された鉄が素材全体の二割とすれば、製品化されたのは六〇s以上。中型の鉄斧なら三〇〇個はできる量だ。近隣の集落だけで消費したとはとても考えられない。この時期には畿内地域でも鉄器が増加し始めるが、そのなかに丹後経由のものが含まれていた可能性は高いだろう。
 紀元前から培ってきた内外の交易を結びつけるノウハウ、先進技術を駆使して素材を加工する技術などを基盤として、やがて弥生後期には、大宮町三坂神社墳墓群、左坂墳墓群、岩滝町大風呂南1号墓、峰山町赤坂今井墳丘墓など、豊富な鉄とガラスを副葬品に持つ首長墓をキラ星のように生み出すに至ったのである。後期の首長墓のようすは、弥生文化の先進地といわれてきた北部九州や畿内地域ではむしろ不明瞭だ。墳墓資料を見るかぎりでは、出雲や因幡を加えた日本海中西部地域の首長層が、弥生後期の列島内でもひときわ有力な存在であったように思える。
 また後期には、畿内地域と東海地域で作られた巨大な銅鐸がともに丹後地域にもたらされている。分布圏の中心から遠く離れた銅鐸の存在は、両地域の首長層が先進物資の入手のために丹後の首長層との連携をいかに重視したかを物語っている。
 ただ、弥生中期後葉から後期にかけてこれほどの外来物資を集めることのできた丹後地域ではあるが、なぜか同時期の中国後漢代の銅鏡はあまり発見されていない。大陸交渉の門戸として発展した北部九州で多数の中国鏡が出土していることとは対照的である。
 この事実は、丹後地域にもたらされた鉄素材などの外来物資が、鏡の豊富な北部九州を経由したものではないこと、つまり丹後の首長層がいわば独自の大陸交渉ルートを持っていたことを示唆している。そしてその交渉先は、豊かな鉄資源を持ついっぽうで中国鏡は少ないという同じ特徴がみられる、朝鮮半島南部の伽耶地域に求めるのが妥当であろう。
 貿易と先進工業技術、といえば現代日本のキーワードであるが、丹後地域の発掘調査は二千年前にも「貿易技術立国」へ向かった倭人社会があったことを解き明かしつつある。