西日本新聞 2004年6月8日
三角縁神獣鏡の成分分析
福 永 伸 哉

 銅鏡に含まれる銀やアンチモンなどの微量成分を大型放射光施設SPring-8が生み出す強力な放射光を用いて測定した成果が先ごろ公表された。分析対象となったのは、京都の泉屋博古館が所蔵する戦国時代から三国・西晋時代までの中国鏡69面、中国鏡をまねて日本列島でつくられた古墳時代の倭鏡18面、そして中国製か国産(倭製)かで論争の続く三角縁神獣鏡8面である。
 三角縁神獣鏡に関連する成果としては、①中国鏡と古墳時代倭鏡の成分は異なる、②中国鏡の中でも三世紀の三国・西晋神獣鏡は互いの成分の類似度がとくに高い、③三角縁神獣鏡のうち6面はこの三国・西晋神獣鏡のグループに入り、2面は古墳時代倭鏡のグループに入った、という三点に整理できよう。
◆製作地論争
 三角縁神獣鏡は古墳時代前期(三世紀中葉〜四世紀)の有力古墳に副葬されており、分布は九州から東北南部にまで及ぶ。古墳からの出土数を府県別に見るとまず奈良県が突出して99面。以下、京都府65面、兵庫県44面、大阪府40面、福岡県37面と続く。福岡の37面も相当な数だが、全体としては畿内地域に分布が厚いため、初期大和政権が政治的連携の証として各地の首長層に贈った、という評価が定着している。
 三角縁神獣鏡に大きな関心が寄せられるのは、「魏志倭人伝」に魏皇帝が邪馬台国女王卑弥呼に与えたと伝える「銅鏡百枚」の有力候補となっているからだ。三角縁神獣鏡が魏の鏡なら邪馬台国から大和政権への連続的な発展は無理なく描けることになる。
 しかし、肝心の中国で三角縁神獣鏡が出土していないため、その製作地については激しい論争が続いている。第一の立場は、三角縁神獣鏡の多くは卑弥呼の遣使に対して魏王朝が特別に製作して与えた中国鏡で、三世紀末以降正式な交渉が途絶えるとこれを模倣した倭製三角縁神獣鏡がつくられた、というものだ。これに対して、1980年代以降になると三角縁神獣鏡をすべて国産と見る第二の立場が根拠を増し、有力な仮説となってきた。
◆編年研究との一致
 こうした製作地論争のいっぽうで、多くの考古学研究者によってその形の推移を明らかにする編年研究もさかんに行われ、現在では三角縁神獣鏡の新古をおよそ9段階にわけてとらえられるようになっている。分析に供された泉屋博古館の三角縁神獣鏡は、まんべんなく各段階のものを含んでいるという点では好都合の資料だった。
 8面のうち、三国・西晋神獣鏡と成分の一致が認められた6面は第一段〜第四段階、倭鏡とおなじ成分と判明した2面はそれぞれ第五段階と第八段階のものである。重要なのは成分の違いが明らかになった第四段階と第五段階の境界が、考古学の型式学的な検討からも大きな断絶が指摘されていたラインと一致することだ。三角縁神獣鏡=魏鏡説を認める第1の立場でも、中国製と倭製の境界をここにおいている。
 さらに興味深いのは今回の発表において資料⑦とされた第五段階の倭製三角縁神獣鏡だ。倭製では最古段階にあたるこの鏡は、中国製三角縁神獣鏡を鋳型粘土に押し当ててコピーをとり、さらに周囲に模様を加えて製作された「踏み返し鏡」と見てよい。その成分が倭製鏡と一致している事実は、四世紀初めの中国王朝の滅亡によって最終的に三角縁神獣鏡の入手が途絶する事態に至ったとき、まずこうした変則的な技法と列島内にあった原料を用いて三角縁神獣鏡不足への対処が行われたことを強く示唆している。
◆ボールは国産説側へ
 三角縁神獣鏡原料の産地分析としては、すでに鉛の同位体比に注目した研究によって中国製と倭製の値の分布域がやや異なることが指摘されている。型式学、鉛同位体比分析、そして今回のSPring-8を使った微量成分分析の成果が三角縁神獣鏡を中国製と倭製にわける方向に向かいつつあることは無視できないように思われる。
 製作地を考える上で鍵となる資料に焦点を当てた測定や、中国鏡と倭鏡の成分の違いが生じた原因の解明などが課題として残されていることはいうまでもない。しかし、少なくとも三つの方法で浮かび上がってきた三角縁神獣鏡の差異をどう説明するのか。論争のボールはふたたび三角縁神獣鏡国産説の側に投げかけられたといってもよかろう。