朝日新聞 2005年9月24日
空白期 河内勢力台頭か
福 永 伸 哉

 三世紀半ば過ぎから巨大な前方後円墳がつぎつぎに造営された大和盆地東南部。古墳時代はじめの政治的枠組みが初期大和政権と呼ばれるゆえんだ。ところがどうしたことかこの地域の巨大古墳は四世紀後葉を境に姿を消し、四世紀末になると生駒山地を越えた河内平野に日本屈指の古市古墳群が登場する。
 大和から河内への巨大古墳の移動現象は、古くは江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」や文献史学の「王朝交替論」などの着想とも関連した考古資料上の顕著な変化である。現在でも、政治的主導権が大和勢力から河内勢力へ移ったと見る「政権交替論」や、覇権を保持する大和勢力が墳墓造営地をあらたに河内平野に設けたにすぎないと考える「墓域移設論」などが提起されて論争は続いている。
議論がなかば膠着状態に陥っていたのは、お膝元の南河内地域において、古市古墳群出現前の地域動向が今ひとつ不明瞭なためであった。先ごろ公表された羽曳野市庭鳥塚古墳の調査成果は、その意味でまさに日本古代史の資料的空白を埋める「発見」といっても過言ではない。
 庭鳥塚発見の大きな意義は、古市古墳群の出現前に、一帯がけっして無人の荒野だったわけではなく、すでに周辺には有力な地域勢力が根を張っていたことを明らかにした点である。出土した三角縁神獣鏡は、筆者の理解では三世紀半ばに中国王朝からもたらされた古相の一枚。初期大和政権を通じて三角縁神獣鏡を入手できる有力者の系譜が早くからこの地に存在したことを示唆する。
 とはいえ、近年、古相三角縁神獣鏡の出土が相次いでいる淀川流域から瀬戸内北岸地域に至るベルト地帯と比較すると、南河内の古相三角縁神獣鏡はいかにも少ない。大和の隣接地であることを考えれば、それは「冷遇」とさえいえるような政権からの扱いの低さである。
 しかも、庭鳥塚の築造は四世紀後半。この有力者の系譜は三角縁神獣鏡を入手してもすぐには古墳の築造に向かわなかったわけで、木棺の形が大和に多い割竹形ではなく箱形だったことも含めて、むしろ初期大和政権と河内勢力との政治的距離の遠さを表しているようにも思える。
 その庭鳥塚の被葬者が有力古墳を築くまでに台頭した背景の一端を示すのが、副葬された二点の筒形銅器だ。武器の柄を飾る金具と推定される筒形銅器は四世紀半ば以降に現れるもので、近年では朝鮮半島南部の伽耶地域の墳墓からも多く出土している。製作地の問題はともかくとしても、倭と半島南部の活発な交渉が始まった時期のものだ。
 古市古墳群発展の原動力が、半島との交渉を通じて入手した伽耶地域の鉄資源であったことはまず間違いなかろう。庭鳥塚の筒形銅器を重視すれば、この被葬者の系譜がそうした半島交渉を重視する政治戦略の波に乗って台頭し、まもなく古市古墳群自体を生み出していく勢力の一部に発展していったと解釈することも不可能ではあるまい。
 三一六年の西晋の滅亡を境に、中国王朝の後ろ盾を失った初期大和政権の権威が揺らぐいっぽうで、伽耶地域との交渉を基盤に河内勢力が力を伸ばし、政治的主導権を手中にしていったと見るのが筆者の立場だ。
 文献史料の空白期ともいえる四世紀。考古学の担う責任は大きい。時代の転換点に位置する古墳の実態を良好な形でとらえた庭鳥塚の調査成果は、古墳時代史の根幹にかかわる論争をあらたな次元へと進めるであろう。