朝日新聞 2006年9月8日
隠された歴史まだ深く−三角縁神獣鏡が語るもの−
福 永 伸 哉

 三世紀後半に日本列島の広い範囲で出現する前方後円墳や前方後方墳。これら古墳発生の背後に大和政権と地域首長の政治関係の成立を読みとった一九五〇年代の小林行雄氏(故人・京都大学名誉教授)の研究は、記紀ではなく考古資料から独自の歴史復元が可能なことを鮮やかに示した点で、歴史学としての考古学の自立を象徴するものであった。
 分析の最大の手がかりは有力古墳から出土する三角縁神獣鏡だ。小林氏はこの鏡が地域支配の証として大和政権から配布されたと考え、畿内を起点に東西日本に分布が広がっていく動きを政権の勢力伸長と理解した。さらに、中国魏王朝から邪馬台国卑弥呼に下賜されたと『魏志』倭人伝が伝える「銅鏡百枚」を三角縁神獣鏡とみて、邪馬台国から大和政権への連続的な発展を畿内地域のなかでとらえたことも、小林氏の重要な主張である。
 それから半世紀。奈良県黒塚古墳をはじめ多くの調査成果によって、三角縁神獣鏡と大和政権との関係の強さはもはや疑いのないレベルになった。そのいっぽうで、三角縁神獣鏡=魏鏡説の当否については、中国の研究者をも巻き込んだ議論が起こり、熱い論争はいまも続いている。なかでも、中国社会科学院の王仲殊氏が一九八一年に提起した「呉の工人が亡命先の倭で製作した」とする「日本列島製説」は、学界におおきな衝撃を与えた。
 邪馬台国、大和政権、魏王朝。三者を三角縁神獣鏡によってつなぐ立場ははたして誤りなのか。論争のゆくえは「日本誕生」過程の復元に少なからぬ影響を及ぼすのである。
 十数年前の夏、とある博物館の鏡の展示を眺めていた私は、三角縁神獣鏡の鈕孔(ちゅうこう−鏡の中央にある紐通しの孔)が風変わりな長方形であることにふと気づいた。ほかの種類の鏡はほとんど円形や半円形の鈕孔。三角縁神獣鏡の長方形鈕孔は見るからに異質だった。
 銅鏡は鋳物だから、鈕孔を設けるためには鋳型のその部分に溶銅が流れ込まないように粘土の棒を置く必要がある。鈕孔の形はこの粘土棒の断面形と関係するわけだ。
 模倣のありうる図像文様ではなく製作工人の流儀ともいえる鈕孔の形を追っていけば、三角縁神獣鏡の製作地にたどり着けるのではないか。そう考えて銅鏡千数百枚の観察を進めた結果、この特異な長方形鈕孔の手法が魏の領域の鏡に特有のものであるという結論を得ることができた。もちろん呉の領域や日本列島在来の工人の手法とは違う。
 とりわけ重要なのは、魏の官営工房を示す「右尚方(うしょうほう)」の銘のある鏡や、三角縁神獣鏡とまったく同じ銘文を記した河北省易県(魏の領域)出土の方格規矩鏡などが、典型的な長方形鈕孔を持つことだ。三角縁神獣鏡が技術的に魏系の鏡であることはまず動かない。
 さらに「景初三年(二三九)」「正始元年(二四〇)」など、倭から魏への遣使にまつわる年号銘を持つ鏡が含まれることを考えると、三角縁神獣鏡は邪馬台国、大和政権と中国王朝との正式交渉のなかでもたらされたとみるのがやはり妥当だろう。列島内における出土分布からは、大国の権威を最大限に利用した大和政権の地域戦略を推測することも可能だ。
 この一五年あまりの間に、古墳出現期の考古資料は驚くほど豊かになった。古墳の築造が本当に大和政権と各地域との支配服属関係を意味するのかという本質的な問いかけも生まれている。刻々と変わる三世紀の東アジア情勢のなかで、なぜ倭人たちは前方後円墳の成立に示されるような政治統合に進んだのか。中国王朝との関係が再確認された三角縁神獣鏡には、まだまだ語ってもらわなくてはならない歴史が隠されていると思うのである。