徳島新聞 2006年10月18日
鳴門・板野古墳群を考える−政権と太いパイプ−
福 永 伸 哉

 真っ赤な水銀朱のなかに浮かび上がる銅鏡や腕飾り。さる8月下旬に関西圏の朝刊各紙の一面を飾ったのは、大阪府高槻市の闘鶏山古墳の石室内部を撮影した生々しい写真だった。私がとりわけ興味をおぼえたのは、両側からせり出すように積まれた石室の壁石が、青みがかった光沢を放っていたことである。これは畿内の石ではない。
 地元の高槻市教委が公表したとおり、四世紀初めにつくられた闘鶏山古墳の石室に使われていたのは、阿波の吉野川流域で産する結晶片岩(いわゆる阿波の青石)だった。この古墳をつくる際に、阿波の豪族が何らかの形でかかわっていたことは疑いない。
 古墳成立の前史をたどると、すでに弥生時代から畿内と阿波の間には、密接な関係がうかがえる。弥生後期(1〜2世紀)に畿内地域で製作された巨大な銅鐸は、1992年に矢野遺跡(徳島市国府町)で発見された著名な「矢野銅鐸」をはじめ、阿波での出土例がことのほか多い。
弥生終末期(3世紀前葉)になると、銅鐸にかわって画文帯神獣鏡や浮彫式獣帯鏡と呼ばれる中国製の神獣鏡が、日本列島の有力者の間で重視され始めた。出土分布から判断すれば、それらの大陸からの入手や列島内での流通に影響力を持ったのは畿内勢力、とりわけ大和盆地の豪族であったとみるのが妥当だ。
 阿波では萩原一号墓(鳴門市大麻町)の画文帯神獣鏡、西山谷二号墳(同)の浮彫式獣帯鏡など、この種の神獣鏡が計六面も出土しており、銅鐸に引き続いて畿内地域との強い結びつきをうかがわせる。三世紀前葉はいわゆる邪馬台国の時代。邪馬台国畿内説に立つならば、阿波と邪馬台国との親密さと読み替えることもできよう。
 そして、前方後円墳が生まれ、大和政権が成立した古墳時代前期(3世紀中葉から4世紀)。邪馬台国から発展したこの政権は、中国・魏王朝から与えられた三角縁神獣鏡を切り札にして、各地の豪族との連携を深めていった。
 阿波地域はかつて三角縁神獣鏡の空白地帯とされていたが、89年に行われた宮谷古墳(徳島市国府町)の発掘調査以来、状況は一変した。宮谷古墳からは三面の三角縁神獣鏡が出土したほか、2001年には板野町出土と推定される三角縁神獣鏡の存在も明らかになっている。阿波地域は三角縁神獣鏡の段階においてもまた、畿内の政権と密接な関係を保っていたのである。
 古墳の石材に話を戻すと、畿内地域では調査が進むにつれて、阿波の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。大阪府の闘鶏山古墳、将軍山古墳、鍋塚古墳、牧野車塚古墳、神戸市の西求女塚古墳などが典型例だ。そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。
 三角縁神獣鏡の濃密な分布からみると、大和盆地から淀川をへて瀬戸内海にいたるこのルートこそが、大和政権の命運を握る物流の大動脈であった可能性は高い。つまり、阿波の豪族はそうした地域勢力との間に石材や銅鏡など、葬送儀礼の重要なアイテムをやりとりするような太いパイプを築いていたということになろうか。
 全国的にみれば、阿波は巨大な前方後円墳が次々と営まれた地域とはいえない。しかしその古墳文化は、大和政権の成立へ向けて大きく動く倭人社会のなかで、つねに「主流派」にくみしながら発展を遂げていく地域のしたたかさを、現代のわれわれに見せつけてくれるのである。