毎日新聞 2007年3月12日
横穴式石室に斬新さ−難工事が表す継体新政権の決意−
福 永 伸 哉

 大阪府高槻市教育委員会の「粘り勝ち」というべきだろう。1997年から市教委が進めてきた今城塚古墳の発掘調査で、10年目にしてついに古墳の埋葬施設の一部をなす「石組み遺構」の存在をつきとめたのである。
 通常の古墳なら埋葬施設の解明にここまで難渋することは少ない。しかし、今城塚は13世紀後半の大規模な盗掘の後、戦国期には城砦として利用されたらしく、さらに1596年の慶長伏見地震によって墳丘は地滑りを起こし、築造当初の姿から大きく形を変えていた。2003年に後円部で見つかった石組みの排水溝も、埋葬施設との関係ははっきりせず、埋葬施設の構造については迷宮入りかと思われていた。今回の調査はだめ押しの最終確認の意味も含めて後円部の地滑り部分を掘り下げたものだった。
 見つかった石組み遺構の全形は復元すると方形を呈するようで、四辺のうち長さの確定できた一辺は17.7m、高さはもっともよく残った部分で0.8mになる。まさに巨大な積み石の「基壇」を墳丘内に埋め込んだともいえるものだ。重量のある構造物をのせるための入念な基礎工事と考えて間違いなかろう。外まわりを偏平な板石で整然と積み上げ、その内側に人頭大の塊石を詰め込む構造からは、石材調達も含めた周到な計画性を感じさせる。
 じつは、京都府五ヶ庄二子塚古墳、奈良県市尾墓山古墳など近畿の6世紀前葉の有力前方後円墳において、数例ではあるが類似した石組みが確認されている。二子塚は後世の削平で不明だが、市尾墓山では石組みの上部に横穴式石室が築かれていた。つまり、ほぼ同じ時期の今城塚においても横穴式石室の存在していたことが確実になったわけである。
 石組みを必要とした理由は、当然ながら構造面での配慮であろう。地滑り前の石組みの位置から推定すると、今城塚の後円部は三段築成で、横穴式石室はその最上段に造られていた可能性が高い。墳丘のほとんどは盛土で築いているから、不安定な地盤の上に石室をのせることになる。石組みはその際の不等沈下を防ぐ「ベタ基礎」のような機能を果たしていたと考えられる。積み石で方形基壇状の構造物をつくるこうした手法は、5世紀までの日本列島では一般的でないため、その技術系譜は今後の興味深い検討課題だ。
 後円部を三段築成とし、最上段に埋葬施設を設けるあり方は、3世紀後半以来の大型前方後円墳の約束事を引き継いではいる。しかし私は、伝統的な墳丘構造の中に旧来の竪穴式石室ではなく横穴式石室という大陸新来の埋葬施設を採用した点にこそ、今城塚の斬新さがあると読む。
 その被葬者については、すでに多くの研究があるように、6世紀になって倭政権の政治的主導権をあらたに握った継体大王が最有力の候補であろう。今城塚が築かれた6世紀前葉を境に、古墳の埋葬施設は全国的に竪穴式原理から横穴式原理へと大きく転換していくが、今回の成果はそうした変化の波を起こしたのがほかならぬ継体大王であった可能性を強く示唆している。
 石組み基壇の上に大規模な横穴式石室を構築するというかつてない難工事。古墳の造営自体が政治的なデモンストレーションであったと考えれば、そこには葬送儀礼のスタイルを一新することで主導権の強化を図った継体新政権のなみなみならぬ決意が表れているように思えるのである。