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タイトル:Web版川西の遺跡

川西歴史三題

川西の鉄道史─能勢口駅周辺の変遷─

現在の川西能勢口駅前
現在の川西能勢口駅前
賑いを見せる能勢口駅周辺。この地が川西市の表玄関として発達してきた経緯はどのようなものだったのでしょう。

明治18年陸地測量部によって作られた仮製二万分の一地形図には、小戸、小花等の村落が点在するのみで、田畠が広がるのどかな風景が読みとれます。

明治26年、川西に鉄道が開通しました。尼崎から池田に至る摂津鉄道です。路線は伊丹を通り猪名川に沿って北上し、終点の池田停車場は猪名川右岸の呉服橋西側に設けられました。川西にあるにもかかわらず池田という名が付けられたことは、当時、集散地として賑いをみせていた池田の最寄駅という性格であったことを示しています。

摂津鉄道が保有する機関車は20両で、スイス製ボトムタンク機関車でした。駅は尼崎より七駅を数え、所要時間は池田−長洲間で約30分、池田・伊丹間が約13分でした。

摂津鉄道を買収した阪鶴鉄道が明治30年開業しました。その路線は、摂津鉄道当時とは大きく変わり、川西小学校の南側から旧摂津鉄道線と分かれ寺畑から宝塚に向い、後に終点福知山まで開通しました。市内寺畑に池田停車場をはじめ、機関庫・修理工場がつくられ、さらに阪鶴鉄道本社が設けられました。

明治40年8月1日、阪鶴鉄道は国有化され、国鉄福知山線、そして先ごろ西日本旅客鉄道株式会社宝塚線と移り変わりました。

能勢電鉄1号車(大正2年)
能勢電鉄1号車(大正2年)
(写真:能勢電鉄)
能勢口の発展に直接影響を与えることになる箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が明治43年開通しました。しかし、川西に設けられた最初の駅は花屋敷駅でした。現在の雲雀丘花屋敷駅東300メートルの地点に設けられた花屋敷駅と、国鉄の池田駅とはわずか200メートルしか離れていませんでした。本来ならばこの二駅を中心に駅前中心地が出現することが予想されましたが、国鉄線の旅客が減少傾向にあり実現しませんでした。

能勢電旧国鉄連絡線(昭和初期)
能勢電旧国鉄連絡線(昭和初期)
(写真:阪急電鉄)
当時、一方では増加しつつあった能勢妙見宮参詣の人々の足を確保しつつ、炭・寒天などの産物の輸送、さらに平野鉱泉・山下製錬所の製品原料の搬送を目的とした能勢電気軌道(現在の能勢電鉄)が、明治41年5月設立されました。起点となる駅が設けられたのは小花1丁目1で、現在の能勢口駅の誕生です。能勢口駅から一の鳥居駅までの間で営業運転を始めたのが大正2年です。なお、これに先だち箕面有馬電気軌道に能勢口駅が設けられました。大正6年8月、能勢口駅と旧国鉄の池田駅間に連絡線が、6年後には妙見駅まで開業しました。

昭和に入り、能勢口駅周辺は一層繁栄しました。昭和13年1月、阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)宝塚線の能勢口駅との連絡をより便利にするための能勢電鉄能勢口駅拡張工事が完成し、駅はほぼ現在の形になりました。

能勢電川西国鉄駅前駅(昭和30年頃)
能勢電川西国鉄駅前駅
(昭和30年頃)(写真:阪急電鉄)
昭和40年代から始まった住宅団地の開発は、市の中・北部の人口を急増させ、能勢口駅の乗降客数の増加につながりました。特に朝夕のラッシュ時間は阪急宝塚線との連絡客で大混雑するようになりました。これら混雑を暖和し、駅周辺の交通渋滞の解消に向けて能勢口駅前再開発事業が行われ、能勢口駅周辺も生まれ変わりました。

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