■ バーチャル現地説明会 ■


2次-1調査区


説明風景
2次−1調査区  墳丘・石室の構築法の解明

2次−1調査区では、横穴式石室の構築方法を探る手がかりを得ました。

崖面の南端付近で地山(古墳築造前の基盤層)が急激に落ち込んでいる箇所が観察できます。石室の床面は、確認できる地山の落ち込みの上端よりも約1m低いことがわかっています。こうしたことから、勝福寺古墳ではまず地山を掘りくぼめて平坦な面をつくり、その平坦面に横穴式石室を構築しているようです。

そして石室構築後の墳丘の構築方法としては、主に黄色から暗赤褐色の盛土を比較的大きな単位で盛り上げて墳丘を構築しているのが観察できます。

2次−2調査区


2次−3調査区
2次−2・3調査区 墳丘西半部の破壊について

古墳の西側は、明治20年(1887年)以前から建築用壁土として封土が採取された結果、石室西側の石材が露出し、削られた墳丘の跡は既に平坦な面となっています。この古墳西側における地表下の破壊の程度を調べるため、この平坦面に東西方向に調査区を設けました。

調査の結果、2次−2調査区および2次−3調査区において地山を検出することができました。しかし、これらの地山の標高は3次−1調査区で確認された墳丘裾部よりも低く、2次−2調査区では墳丘裾部を示す地山の傾斜変化が検出されなかったことから、古墳築造当時の墳丘裾部のさらに下まで削り取られていることがわかります。ただし、2次−3調査区では地山の傾斜変化がみられ、それが墳丘の形を反映している可能性もあります。

また、両調査区の地山のすぐ上面の層から瓦や陶磁器などが出土していることから、これらが近代の削平後に形成された層であることが確認できました。







横穴式石室内部
横穴式石室 猪名川流域最古の横穴式石室

勝福寺古墳の横穴式石室は古墳時代後期に近畿地方で流行する畿内型横穴式石室の中でも最古の部類に属します。右片袖式の石室で、 全長8.94m、玄室幅約2.3m、玄室高約2.45mを計ります。現地では入口から覗いていただいただけでしたが、バーチャルでは中の様子もごらん頂きます。

映像 石室入口から中に入る映像(約1.3MB 18秒) 


3次−2調査区風景


3次−2調査区
前方部と後円部境界
(左前方部・右後円部)

3次−2調査区 前方後円墳の可能性

かつて勝福寺古墳は円墳が2つ連なっていると考えられてきましたが、昨年の大阪大学考古学研究室による測量調査の結果、全体的な墳丘の形態は前方後円墳に近いという見解を得ました。そこで今回の調査では、発掘によって墳丘の形状を確認することにしました。その結果、墳頂部に設定した3次−2調査区において墳丘形態に関する重要な知見を得ることができました。

この調査区では、墳丘の北から南まで続く盛土が検出され、それらが、一連の墳丘であることが確認できました。このことから、2基の円墳ではなく、全長約40mの前方後円墳である可能性がきわめて高くなったといえます。

また、調査区の北半では、墳丘北側から急な傾斜で落ちる盛土が認められました。したがって、後円部が先に築造された後に、前方部の土盛りがおこなわれたと考えられます。

盛土は黄色と灰色の互層を基本としており、2次−1調査区とは対照的な墳丘の構築方法となっています。ただ、調査区北側では、灰色の盛土をほとんど用いずに黄色の盛土のみで墳丘を構築している部分が観察できます。

このように、一連の墳丘ではあるが、後円部と前方部の墳丘構築法が大きく異なっているということが今回の調査で明らかになりました。

3次−1調査区


埴輪列検出状況
3次−1調査区 埴輪の検出

3次−1調査区では、墳丘斜面の途中に平坦面があり、その上から円筒埴輪の底部が2個体、ほぼ立った状態で出土しました。詳細に検討したところ、平坦面の上に堆積した墳丘流出土の中に含まれていることが判明したので、古墳築造時の位置をとどめているのではなく、やや動いているものと考えられます。ただし、埴輪の形状がさほど崩れていないことから、移動距離はさほど大きくないものと思われます。

したがって、古墳築造時には墳丘上に埴輪列がめぐっていたことが推定できます。また平坦面の存在からみて、この古墳が2段築成であったことがわかりました。

3次−1調査区では、このほかに墳丘上の攪乱土の中から甲冑形埴輪の一部が出土し、墳丘裾部の堆積土中からも円筒埴輪の破片が多数出土しています。なお、今回の調査では他のトレンチから埴輪片は出土しませんでした。

出土遺物
(左埴輪、右須恵器)
出土遺物 
今回の調査では埴輪と須恵器が出土しました。円筒埴輪は突帯の突出度が比較的高く、ヨコハケ調整が認められるなど、丁寧につくられていることが観察できます。また3次−1調査区の攪乱土中から出土した甲冑形埴輪の一部には、鋲と思われる表現が確認できます。須恵器は2次−3調査区の攪乱土中や、2次−1調査区および3次−2調査区の墳丘盛土内から出土しました。しかし、いずれも小破片であるため、明確な時期を決めることはできませんでした。


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勝福寺古墳発掘調査