今回調査の目的と計画


1.調査の目的

科学研究費による研究テーマは『西日本における前方後円墳消滅過程の比較研究』です。地域で最後の前方後円墳はどのような特徴をもっているのか、どのような過程をたどって6世紀に前方後円墳が消滅に向かうのか、という問題について、西日本で広く比較研究を行い、出現過程ではなく消滅過程に着目して、前方後円墳築造の意味を考えることを目的としています。この研究は、大阪大学考古学研究室が1992年以来取り組んできた京都府南部の乙訓地域における後期古墳の調査研究とも密接に関係しています。

勝福寺古墳は以下に示すように、明治時代からその存在が知られていますが、その墳形に関しては、前方後円墳説と円墳2基がくっついているものという説がありました。今年の調査は、墳丘の調査を中心に、古墳の形と大きさ、築造時期を解明することがまず大きな目的です。この古墳が前方後円墳であるか否かは、畿内北部の猪名川流域の前方後円墳消滅過程を検討するうえで、どうしても確定しておかなくてはならない課題です。

また、この地域では4世紀後半から5世紀にかけて、豊中市域に桜塚古墳群という大古墳群が展開しますが、6世紀をむかえる頃には桜塚古墳群の築造が下火になりこれと交替するように、東の川西市域や池田市域に初期の横穴式石室をもつ有力古墳が現れます。この変化を古墳時代史のなかで位置づけることも重要な研究テーマです。そのためには、勝福寺古墳の築造時期をさらに明確にする必要があります。

さらに、大阪大学による調査と併行して、墳丘が崩れた部分の状況を正確に把握して古墳の保存と活用に必要な資料を得るための調査が川西市教育委員会によって行われる予定です。


2.過去の調査

勝福寺古墳はこれまでに以下のような調査・報告が行われています。

1877年以前
(明治20年以前)
横穴式石室の側壁と羨道入口が露出し、内部において多くの副葬品が発見。
1882年
(明治25年)
坪井正五郎「摂津国川辺郡川西村発見古器物考」 
1929年
(昭和4年)
木村次男 1929「摂津の鈴鏡出土の古墳」『考古学雑誌』第19巻第11号 日本考古學會、東京:pp.20−27、発表。
勝福寺古墳を主体部に横穴式石室を持つ前方後円墳と報告。
1933年
(昭和8年)
墳丘南側から五獣形鏡、鹿角製刀装具の付いた刀片が出土。後に南 墳北槨と呼ばれる埋葬施設の存在が確認。
1934年
(昭和9年)
梅原末治らによる調査。
1935年
(昭和10年)
梅原末治 1934「摂津火打村勝福寺古墳」『近畿地方古墳墓の調査一』日本古文化研究所報告第一 日本古文化研究所、京都:pp.44−51発表。
前方後円墳ではなく、時期を異にする円墳2基が連接したものであると報告。
1971年
(昭和46年)
川西市教育委員会による調査。
南墳南槨を検出・調査。石室内の調査。墳丘測量。石室実測。円墳2基が連接したという梅原末治の見解を踏襲。その成果は、以下の『かわにし』で公表されている。
1974年
(昭和49年)
武藤 誠 「考古学からみた川西地方」『かわにし』川西市史第1巻 川西市、兵庫:pp.39−168(右図:1971年当時の墳丘、武藤1974より再トレース、一部改変)
1976年
(昭和51年)
亥野 彊 「古墳時代の遺跡と遺物」『かわにし』川西市史第4巻資料編Ⅰ 川西市、兵庫:pp.81−104
2000年
(平成12年)
大阪大学大学院文学研究科考古学研究室による測量調査。石室実測。
2001年
(平成13年)
大阪大学考古学研究室編・発行『勝福寺古墳測量調査報告』を発行。前方後円墳である可能性を指摘。埴輪を採集。


3.トレンチの設定

 後円部の形状を知るために、墳丘の周囲に5本のトレンチを設定する予定です。これのトレンチで墳丘の裾部を確認し、大まかな墳形を確認します。東側のクビレ部と前方部(南墳)南側は次年度調査予定です。
 墳頂部には1971年の調査時のトレンチ跡が窪地となっていますが、ここも再発掘します。本古墳が2基の円墳が連接したものであるならば、墳頂部に区画の施設があるはずです。その有無がこの調査で確認されるでしょう。(トレンチ配置図