┌──────────────────────────────────────┐ │勝福寺古墳発掘調査現地説明会資料 │ │2001年8月11日 川西市教育委員会・大阪大学考古学研究室 │ └──────────────────────────────────────┘ 1.はじめに  勝福寺古墳は長尾山丘陵の先端部にあり、墳頂から川西市街を一望できる眺望のよい場所に位置しています。この古墳は明治時代からその存在が知られ、古い形態の横穴式石室や出土した鏡などは、学史上きわめて重要な存在です。しかし、墳形や墳丘規模などの点で明らかでないことも数多くありました。その一方で、明治から昭和の初めにかけておこなわれた土取り跡の崩落が進行し、石室の崩壊が懸念されるようになりました。そこで今回、大阪大学考古学研究室と川西市教育委員会が7月21日から共同で調査をおこない、墳形の確認や古墳の崩壊状況を調査して参りました。本日は、その成果を御覧いただきます。 2.これまでの調査と今回の調査の目的 勝福寺古墳は、第1表にまとめたように、明治以降幾度かの調査・報告がおこなわれています。特に、1935年(昭和10年)以降、円墳2基が連接した古墳として知られるようになりました。しかし、2000年の測量調査から、前方後円墳である可能性も考えられるようになりました。 そこで今回の調査では、古墳の形と大きさ、築造時期を解明するとともに、墳丘の崩落の現状を把握することを目的としました。この古墳が前方後円墳であるか否かは、畿内北部の猪名川流域の古墳時代史を検討する手がかりとなり、墳丘が崩れた部分の状況を正確に把握することは、古墳の保存と活用に必要な資料を得るための基礎作業でもあります。  そこで、今回の調査では5カ所に調査区を設定しました。まず、墳丘の西側の石室石材が露出した崖部分に2次−1調査区を設定し、同じく墳丘西側に広がる平坦面に2次−2・3調査区を設定しました。そして墳丘北側に3次−1調査区を、墳丘の頂部に3次−2調査区を設定しています(第2図)。なお、1971年の川西市教育委員会による調査を第1次調査とし、今回の調査のうち、川西市教育委員会主体の調査を第2次調査、大阪大学考古学研究室主体の調査を第3次調査としています。 3.今回の調査でわかったこと  前方後円墳の可能性 かつて勝福寺古墳は円墳が2つ連なっていると考えられてきましたが、昨年の大阪大学考古学研究室による測量調査の結果、全体的な墳丘の形態は前方後円墳に近いという見解を得ました。そこで今回の調査では、発掘によって墳丘の形状を確認することにしました。その結果、墳頂部に設定した3次−2調査区において墳丘形態に関する重要な知見を得ることができました。 第1表 これまでの調査と成果 ┌──────────────────────────────────────────────┐ │1877年以前 │横穴式石室の側壁と羨道入口が露出し、内部において多くの副葬品が発見(第1│ │(明治20年以前 )│図上)。 │ │1882年(明治25年)│坪井正五郎「摂津国川辺郡川西村発見古器物考」 │ │1929年(昭和4年)│木村次男 1929「摂津の鈴鏡出土の古墳」『考古学雑誌』第19巻第11号 日本考│ │ │古學會、東京:pp.20−27、発表。 │ │ │勝福寺古墳を主体部に横穴式石室をもつ前方後円墳と報告。 │ │1933年(昭和8年)│墳丘南側から五獣形鏡、鹿角製刀装具の付いた刀片が出土(第1図上)。後に南│ │ │墳北槨と呼ばれる埋葬施設の存在が確認。 │ │1934年(昭和9年)│梅原末治らによる調査。 │ │1935年(昭和10年)│梅原末治 1935「摂津火打村勝福寺古墳」『近畿地方古墳墓の調査一』日本古文│ │ │化研究所報告第一 日本古文化研究所、京都:pp.44−51発表。 │ │ │前方後円墳ではなく、時期を異にする円墳2基が連接したものであると報告。 │ │1971年(昭和46年)│川西市教育委員会による調査。墳丘測量や石室の実測をおこなうとともに、南墳│ │ │南槨や石室内の調査をおこなった。 │ │ │調査の結果、円墳2基が連接したという梅原末治の見解を踏襲。その成果は、以│ │ │下の『かわにし』で公表されている。 │ │1974年(昭和49年)│武藤 誠 「考古学からみた川西地方」『かわにし』川西市史第1巻 川西市、│ │ │兵庫:pp.39-168 │ │1976年(昭和51年)│亥野 彊 「古墳時代の遺跡と遺物」『かわにし』川西市史第4巻史料編1 川│ │ │西市、兵庫:pp.81−104 │ │2000年(平成12年)│大阪大学考古学研究室による測量調査と石室実測(第1図下)。埴輪を採集。 │ │2001年(平成13年)│大阪大学考古学研究室編『勝福寺古墳測量調査報告』を発行。 │ │ │前方後円墳である可能性を指摘。 │ └──────────────────────────────────────────────┘  この調査区では、墳丘の北から南まで続く盛土が検出され、それらが、一連の墳丘であることが確認できました。このことから、2基の円墳ではなく、全長約40mの前方後円墳である可能性がきわめて高くなったといえます。  また、調査区の北半では、墳丘北側から急な傾斜で落ちる盛土が認められました。したがって、後円部が先に築造された後に、前方部の土盛りがおこなわれたと考えられます。  墳丘・石室の構築法 2次−1調査区では、横穴式石室の構築方法を探る手がかりを得ました。崖面の南端付近で地山(古墳築造前の基盤層)が急激に落ち込んでいる箇所が観察できます。石室の床面は、確認できる地山の落ち込みの上端よりも約1m低いことがわかっています。こうしたことから、勝福寺古墳ではまず地山を掘りくぼめて平坦な面をつくり、その平坦面に横穴式石室を構築しているようです。  そして石室構築後の墳丘の構築方法としては、主に黄色から暗赤褐色の盛土を比較的大きな単位で盛り上げて墳丘を構築しているのが観察できます。  3次−2調査区では、盛土は黄色と灰色の互層を基本としており、2次−1調査区とは対照的な墳丘の構築方法となっています。ただ、調査区北側では、灰色の盛土をほとんど用いずに黄色の盛土のみで墳丘を構築している部分が観察できます。  このように、一連の墳丘ではあるが、後円部と前方部の墳丘構築法が大きく異なっているということが今回の調査で明らかになりました。  埴輪の検出 3次−2調査区では、墳丘斜面の途中に平坦面があり、その上から円筒埴輪の底部が2個体、ほぼ立った状態で出土しました。詳細に検討したところ、平坦面の上に堆積した墳丘流出土の中に含まれていることが判明したので、古墳築造時の位置をとどめているのではなく、やや動いているものと考えられます。ただし、埴輪の形状がさほど崩れていないことから、移動距離はさほど大きくないものと思われます。したがって、古墳築造時には墳丘上に埴輪列がめぐっていたことが推定できます。また平坦面の存在からみて、この古墳が2段築成であったことがわかりました。  3次−2調査区では、このほかに墳丘上の攪乱土の中から甲冑形埴輪の一部が出土し、墳丘裾部の堆積土中からも円筒埴輪の破片が多数出土しています。なお、今回の調査では他のトレンチから埴輪片は出土しませんでした。  墳丘西半部の破壊について 古墳の西側は、明治20年(1887年)以前から建築用壁土として封土が採取された結果、石室西側の石材が露出し、削られた墳丘の跡は既に平坦な面となっています。この古墳西側における地表下の破壊の程度を調べるため、この平坦面に東西方向に調査区を設けました。  調査の結果、2次−2調査区および2次−3調査区において地山を検出することができました。しかし、これらの地山の標高は3次−1調査区で確認された墳丘裾部よりも低く、2次−2調査区では墳丘裾部を示す地山の傾斜変化が検出されなかったことから、古墳築造当時の墳丘裾部のさらに下まで削り取られていることがわかります。ただし、2次−3調査区では地山の傾斜変化がみられ、それが墳丘の形を反映している可能性もあります。  また、両調査区の地山のすぐ上面の層から瓦や陶磁器などが出土していることから、これらが近代の削平後に形成された層であることが確認できました。  出土遺物 今回の調査では埴輪と須恵器が出土しました。円筒埴輪は突帯の突出度が比較的高く、ヨコハケ調整が認められるなど、丁寧につくられていることが観察できます。また2次−3調査区の攪乱土中から出土した甲冑形埴輪の一部には、鋲と思われる表現が確認できます。須恵器は2次−3調査区の攪乱土中や、2次−1調査区および3次−2調査区の墳丘盛土内から出土しました。しかし、いずれも小破片であるため、明確な時期を決めることはできませんでした。 4.勝福寺古墳の歴史的意義  西摂平野における古墳の動向 能勢盆地より大阪湾に流れ込む猪名川流域には、古墳時代を通して多くの古墳が築造されます(第5図)。なかでも古墳時代前期末から中期(4世紀後半〜5世紀)にかけては、豊中市域に大型の前方後円墳や円墳からなる有力な桜塚古墳群が築造されています。これに対して、猪名川に近い川西市や池田市ではこの時期の有力な古墳は認められません。ところが、5世紀末頃を境に桜塚古墳群は衰退し、これと交替するように勝福寺古墳が登場するのです。そして、池田市域にも二子山古墳や鉢塚古墳といった横穴式石室をもつ有力古墳が出現します。このように勝福寺古墳は、西摂平野内部での盟主的勢力の交替を物語る古墳として、歴史的にも重要な意味をもっています。  画期としての勝福寺古墳 古墳時代中期において目立った古墳が築造されなかった猪名川中流域において新たに出現した勝福寺古墳は、伝統的な墓制である木棺直葬と、新たな墓制である横穴式石室をあわせもつ古墳として評価できます。また、勝福寺古墳の横穴式石室は、「畿内型横穴式石室」とも呼ばれる規格的なもので、西摂地域ではもっとも古い時期のものです。この畿内型横穴式石室の普及は、単なる流行ではなく、6世紀前葉の継体大王の即位をめぐる政治変動のなかで、継体とつながりの強い首長に採用されたする意見があります。つまり、勝福寺古墳の築造時期や規模そして系譜を明らかにすることは、猪名川流域の歴史のみならず、6世紀前葉において畿内北部の淀川流域を拠点として王権を展開した継体大王の政治的基盤を解明することにもつながるのです。 5.まとめ  今回の調査では勝福寺古墳が全長約40mの前方後円墳である可能性が高いことが明らかになり、また、後円部は2段築成で1段目平坦面に埴輪列が存在することがわかりました。さらに、墳丘の構築方法の一端を明らかにするとともに、これまで実態が明らかでなかった前方部北棺と考えられる墓壙を検出するなど、数多くの知見を得ることができました。  出土した埴輪はヨコハケ調整を残しており、これまでの理解では5世紀後半に位置づけられるものです。しかし横穴式石室の構造や、以前に石室内から出土した副葬品の特徴などから総合的に判断すると、むしろこうした埴輪が6世紀初頭(MT15型式期)まで残存すると理解すべきかもしれません。  現時点では、勝福寺古墳は畿内北部では最古級の横穴式石室をもち、6世紀初頭につくられた前方後円墳であると評価できます。  しかしながら、古墳の全長や前方部の開きぐあいなど墳形の点において不明なことはまだ数多くあります。横穴式石室の床面は古墳の基底部と1段目平坦面のちょうど中程の高さです。石室の入口がどのような構造をしていたか、新たな疑問も浮かび上がってきました。大阪大学考古学研究室と川西市教育委員会では今後も引き続き調査をおこない、未解決な点についてさらに検討をおこなう予定です。 <図表出典>◆第2図1:川西市1974『川西市史』◆第2図2〜8:日本古文化研究所1935『近畿地方古墳墓の調査一』◆第3図:大阪大学考古学研究室2001『勝福寺古墳測量調査報告書』◆第4図:石上英一ほか(編)『日本史事典』岩波書店◆第5図:清家章2001「猪名川左岸域における小古墳の意義」『待兼山遺跡V』 大阪大学埋蔵文化財調査委員会、森田克行1995「摂津」『全国古墳編年集成』雄山閣◆第2表:吉村武彦1999「新しい王統の成立」『古代を考える 継体・欽明朝と仏教伝来』吉川弘文館