読売新聞 1997年8月4日
邪馬台国のメインルートつながる
福 永 伸 哉

 高槻市安満宮山古墳で魏の青龍三年鏡、三角縁神獣鏡を含む五面の銅鏡が発見された。これらがどういう系譜の鏡であり、いかなる経緯でこの古墳に副葬されるに至ったのか。それぞれが他にあまり例をみない個性的な鏡であるだけに、からみあった糸をうまく解きほぐすと、邪馬台国時代の歴史動向の解明に大きな前進が期待できる。
◆銅鏡百枚
 『魏志』倭人伝は、景初三(二三九)年、初めて魏に使いを送った卑弥呼に対して、魏王朝が「親魏倭王」の称号と「銅鏡百枚」を含むあまたの下賜品を与えたことを伝える。列島の墳墓から出土するおびただしい銅鏡のなかで、どれがその百枚にあたるのか。論争は長く、その如何によっては邪馬台国時代の歴史像の理解は大きく異なる。
 私は近畿地方の古墳から多く出土し、卑弥呼遣使にかかわる景初三(二三九)年、正始元(二四〇)年の年号鏡がある三角縁神獣鏡をおいて他に候補はあり得ないと考えている。三角縁神獣鏡にみられる銘文、図像文様、鈕孔(中央の紐通しの孔)の形が長方形となるなどの諸特徴は魏の銅鏡生産の中で理解するのが最も合理的である。確かに三角縁神獣鏡は中国大陸からは一面も出土していないが、このことはむしろ、鏡好きの蛮族の朝貢に対する「特製」の下賜品としての性格を雄弁に語っているともいえるのである。また、すでに三〇〇面をこえた出土数については、史書にみえる数回の朝貢の度に与えられたと考えれば納得できる。
◆特製品と既製品
 安満宮山古墳の鏡群にはこの三角縁神獣鏡が二面含まれている。このうち、三角縁環状乳神獣鏡(一号鏡)は図像文様がバランスや立体感を欠く点からみて、神獣鏡づくりの熟練工人の手によるものとは考えがたい。技量の劣る工人まで動員されていることは、最初期の三角縁神獣鏡の製作がかなり突貫作業的な状況下で行われた可能性を示唆している。三角縁獣文帯四神四獣鏡(三号鏡)はすでに定型化を遂げており、時期的にはやや新しい。二回目ないし三回目の朝貢時のものであろう。また、同向式神獣鏡(五号鏡)は、縁の形状は異なるが、「陳是作鏡」で始まる銘文、内区の上下左右に配された乳の存在、外区の文様構成、長方形鈕孔などの特徴からみて、初期の三角縁神獣鏡との関連がきわめて強い。景初三年の「銅鏡百枚」に含まれていた可能性が高いと考える。以上の三面は、邪馬台国の朝貢に対する下賜品として魏から卑弥呼に与えられた公式の鏡であったといえよう。
 これに対して、青龍三年銘方格規矩四神鏡(二号鏡)と斜縁二神二獣鏡(四号鏡)は、卑弥呼の朝貢以前に製作され、華北東部一帯で一般に流通していた鏡と考えられる。前者は文字どおり西暦二三五年の製作であり、後者も三世紀前葉の所産とみてよかろう。
 朝貢使節が買物ツアー的な性格を持ちうることは後の遣唐使の例をみても理解できる。おそらく卑弥呼遣使の一行も、政権の意向を受けて、正式な下賜品のほかにも銅鏡をはじめとする魏の先進文物の入手につとめたことだろう。つまり、魏との交渉を通じて、邪馬台国政権のもとには下賜品としての特製三角縁神獣鏡、別途現地調達した既製品の銅鏡という二種類の性格の異なる鏡が集められたと考えられるのである。そして、それらは政策的意図をもって各地の首長に配布されることになる。
 このように多様な銅鏡が列島に持ち込まれていたとすれば、魏との正式な朝貢関係の証である三角縁神獣鏡の意義はますます重要になる。この大国の権威を帯びた特製の銅鏡は、親魏倭王卑弥呼を中心とする邪馬台国政権のみが入手、分配を取り仕切ることのできるとりわけ政治的性格の強い品物だったに違いない。
◆交渉ルートつながる
 安満宮山古墳は上述した両者の鏡を持っているという点で傑出した存在である。眼下を流れる淀川は数キロメートル上流で桂川、宇治川、木津川の三川に分岐し、木津川をさかのぼれば、三角縁神獣鏡三〇面以上を出土した京都府椿井大塚山古墳の麓を経て大和盆地に至る。西方の瀬戸内沿岸地域には兵庫県西求女塚、同権現山五一号、岡山県湯迫車塚、山口県竹島など、初期の三角縁神獣鏡を二面以上副葬する古墳がすでに知られている。安満宮山古墳の発見によって、大和盆地から淀川、瀬戸内海を経て大陸に達する邪馬台国時代のメインルートが考古資料の上でもつながった意義は大きい。魏王朝による倭王としての地位承認を権威の拠り所とした邪馬台国政権にとって、交渉ルートの安定的な確保は政権の生命線を守ることにほかならなかったのである。
 朝貢使節が持ち帰った限られた物資の中から五面もの鏡が安満宮山古墳の被葬者のもとにもたらされていたことは、邪馬台国政権がいかにこの地の勢力との提携を重視したかを物語っている。さらに、この銅鏡群が卑弥呼遣使前後のごく限られた時期のもののみからなる点に注目すると、被葬者自身が朝貢使節の一員であった可能性さえ浮かび上がってくる。安満宮山古墳の出土鏡に初めて対面したとき、私は、大役を果たして帰路についた遣使船の船倉をのぞいているような錯覚にしばらくの間とらわれてしまったのである。