京都新聞他 1998年1月12日
黒塚古墳の三角縁神獣鏡
福 永 伸 哉

◆初期大和政権の鏡
 やはりあったか、というのが天理市黒塚古墳の三角縁神獣鏡出土の報にふれたときの第一印象だった。
 黒塚古墳が含まれる大和盆地東南部の柳本・大和古墳群は、古墳時代開始期の大形前方後円墳が多数築造されていることから、初期大和政権の中枢勢力の墓域と考えられてきた。いっぽう、畿内を中心に列島各地の有力古墳から出土する三角縁神獣鏡は、故小林行雄氏(京大名誉教授)の一連の研究により、初期大和政権の勢力伸張過程を示す重要な考古資料としての評価が定着している。しかし、その政権の活動を示すはずの三角縁神獣鏡は、これまで不思議にも柳本・大和古墳群からの明確な出土例がなかった。
 小林氏は次善の案として、大和の入口に近い京都府椿井大塚山古墳(三角縁神獣鏡三二枚以上出土)の被葬者に配布活動の中心的役割を担わせたり、大和には「いまさら鏡をあたえて手なずけねばならぬほどの有力者はなかった」という解釈を用いたりせざるを得なかった。今回の発見によって、このような遠回りの説明をしなくても、初期大和政権と三角縁神獣鏡との強い関係が非常にすっきりとした形で示せるようになった意義は大きい。
 周知の通り、三角縁神獣鏡については「魏(晋)鏡説」と「列島国産説」があり、活発な論争が続いている。前説をとると、魏晋王朝が邪馬台国の朝貢に対して与えた鏡である可能性が極めて高くなり、邪馬台国から初期大和政権への連続的な展開を描きやすくなるし、後者だと政権の前史はまた違った構図になる。古墳時代史を左右する重要な問題ではあるが、鏡の系譜を解明するためには、図像文様、銘文、形態的特徴といった「もの」に即した検討が不可欠である。黒塚の場合、出土した鏡の取り上げが終わり、詳しい検討が可能になった段階で議論すべきテーマであると考える。
◆際立つ中国志向
 それよりも、現時点で明らかになった調査成果のなかで私が特に重視したいのは、初期大和政権の強い「中国志向」を示すいくつかの点である。
 まず、被葬者を取り囲むように並べられた三角縁神獣鏡の配置が注目される。福永光司氏(京大名誉教授)が早くから紹介しているとおり、晋の神仙術の大家である葛洪が四世紀初めに著した『抱朴子』雑応篇には、径九寸(約二二㎝)以上の明鏡を前後左右の四方に置いて照らせば多数の神仙が現れてくるという「四規鏡」の法が記されている。黒塚の銅鏡配置には、こうした魏晋代に流行した神仙術の銅鏡使用法に通じる意味が込められているように思われる。かつて多量の三角縁神獣鏡が出土した椿井大塚山古墳や岡山県湯迫車塚古墳においても、乱掘後の聞き取りによって類似の配置が復元されていることは、鏡の副葬配置の情報が初期大和政権に参画した有力首長層の間で共有されていたことを示唆している。神仙世界の神々をモチーフとし、かつ大多数が径九寸を超える三角縁神獣鏡自体が、神仙術の霊器としての条件を備えていることはいうまでもない。
 また、被葬者が北頭位で葬られたと考えられる点は、畿内の初期古墳に共通する原則であり、大阪大学の都出比呂志氏が指摘するように、「生者南面、死者北面」という古代中国思想の影響である可能性が高い。さらに、朱の大量使用も、古墳時代開始期前後にとりわけ顕著になる特徴であり、『魏志』倭人伝にみえる魏皇帝からの下賜品のなかに朱が含まれることからみても、同様の解釈が可能である。
 石室の南端から小札革綴の武具が出土したことも重要だ。徳島大学の橋本達也氏によると、三角縁神獣鏡を持つ初期の有力古墳から出土する傾向の強いこの形式の武具は、四世紀半ば以降の朝鮮半島系のものとは異なり、中国に系譜を辿ることが出来るという。
 初期大和政権の中枢で活躍したに違いない黒塚の被葬者が、生前のいでたちにも、そして葬送儀礼の方式にも「中国色」をにじませていることは、この政権の後ろ盾となった支援勢力が何であったかをうかがわせる。政権の背後にはやはり、景初三年の邪馬台国女王卑弥呼の遣使以来継続的な交渉関係を保っていた中国華北の王朝の存在をみるのが妥当であろう。
政権中枢勢力の墳墓がこれほど良好な遺存状態で明らかになったのはおそらく初めてのことであろう。長期にわたる過酷な作業を忍耐強く続けている調査関係者に敬意を表しつつ、今後の調査展開と成果の分析を大いに期待したい。