毎日新聞 1998年5月1日
浮かび上がる三角縁神獣鏡の意味
福 永 伸 哉

 天理市黒塚古墳から出土した銅鏡が先ごろ公開され、大和政権成立に絡む考古資料として多くの論争を巻き起こしている三角縁神獣鏡三三枚の概要が明らかになった。おびただしい遺物や石室構造などの全容解明にはさらに時間を要するが、現時点でこの鏡群から読みとれることをいくつかまとめてみよう。
◆三角縁神獣鏡の系譜
 三角縁神獣鏡の系譜については、卑弥呼が魏皇帝から与えられたという「銅鏡百枚」の内容ともかかわって、魏晋鏡説、国産説の間で論争が続いている。黒塚の調査報道の過程では、製作地にかんするさまざまなコメントが出され、とくに副葬配置や枚数の多さなどが議論の対象となった。しかし、それらは魏晋鏡説、国産説の双方からいかようにも解釈できる問題である。迂遠なようではあるが、まず鏡そのものの型式学的研究をさらに深めることが、その系譜を解きあかす最も確実な方法といえよう。
 筆者は、三角縁神獣鏡にみられる二つの珍しい特徴に注目している。一つは鈕(中心にある半球状のつまみ部分)に開けられた紐通し孔の形が長方形を呈していること、いまひとつは、鋸歯文・波文・鋸歯文で構成される外区文様帯の最外周に不必要とも思える一条の突線(外周突線)が加えられていることである。
 こうした特徴を合わせ持つ鏡は、河北省、遼寧省、北京市周辺など、魏の領域内の中国東部地域から出土する特異な規矩鏡に限られている。しかも、これらの規矩鏡には、銘文中に、「銅出徐州」「吾作明鏡甚独奇」といった三角縁神獣鏡に特有の語句を含むものが確認されている。両者の関係はきわめて深いといわざるを得ない。
 現状では、三角縁神獣鏡を作り出すことができるのは、この東部地域の工人をおいて他には考えがたいのである。それでもなお中国から出土しない三角縁神獣鏡は、倭からの朝貢に対する下賜品として華北王朝(魏および西晋)が特別に鋳造した鏡とみるのがやはり最も合理的なように思われる。
◆製作期間は半世紀
 しかし、特鋳鏡説に立つ研究者の間でも、その製作期間については一〇年程度とごく短期に見積もる考えと、半世紀程度と長期にとらえる考えの相違がある。筆者は、先行研究に導かれながら三角縁神獣鏡を大きく四段階(A〜D段階)に型式編年し、その製作は景初三(二三九)年の卑弥呼の遣使を契機に始まり、その後西晋代にかけて半世紀程度のあいだ継続したという後者の考えを支持している。
 黒塚古墳の三三枚は、古いAB段階のものに限られる。二三九年から二五〇年頃までに製作されたものであろう。三角縁神獣鏡を四枚以上出土した主要古墳における型式の組み合わせをみると、兵庫県権現山五一号墳AB段階、京都府椿井大塚山古墳ABC段階、大分県赤塚古墳BC段階、愛知県東之宮古墳CD段階というように、異なる古墳の間で徐々に新しい段階の三角縁神獣鏡が加わっていく様子がうかがえる。
 製作期間をわずか一〇年程度と考えた場合、なぜ古墳ごとにこうした組み合わせの違いが生ずるのかを説明するのが難しくなる。むしろ、首長の活動時期の違いをその型式差によって十分認識できる程度に、三角縁神獣鏡の製作期間は長かったとみるのが妥当ではなかろうか。AB段階という古い鏡群のみを多量に副葬する黒塚古墳の発見は、確かにそうした型式分類と組み合わせの推移に意味があることを示した点で重要である。
◆明確な政治戦略
 三角縁神獣鏡が半世紀程度にわたって製作されたことが認められるなら、それは倭が華北王朝との朝貢関係を維持していた期間幅にもほぼ対応することとなり、王朝からの下賜品というこの鏡の特殊な性格を理解しやすくなる。
 邪馬台国勢力は、この華北王朝の威信を帯びた特製の鏡の入手、分配を取り仕切ることによって、各地の首長に対する政治的優位性を獲得していった。そして、それが決定的になった時点で、同盟関係の新たな表示として定型化した前方後円墳が創出されたのである。筆者はこれをもって初期大和政権の成立ととらえている。二六〇年代頃のことであろう。
 AB段階の三角縁神獣鏡は、畿内以西では瀬戸内および日本海沿岸地域に、以東では滋賀、岐阜、静岡、群馬などに多く分布する。西方に対しては、政権の命運を握る対中国交渉ルートの確保、東方に対しては、対抗関係にあった狗奴国の本拠と目される濃尾平野低地部勢力の牽制という明確な政策的意図をうかがうことができるのである。この段階の多量の三角縁神獣鏡と最新の武器武具に囲まれて眠る黒塚古墳の被葬者は、列島の新たな政治的枠組みが形成される激動の時代の最前線で活躍した重要人物であったに違いない。