○近畿地方の巨大古墳の変遷と政治の動き
日本で一番大きな古墳が、大阪府の堺市にある大山古墳(だいせんこふん/仁徳天皇陵古墳)であることは皆さんもご存じでしょう? このほかにも堺市や大阪府藤井寺市・羽曳野市周辺には日本のトップテンにはいる巨大古墳が軒並みあります。これらは5世紀代、つまり古墳時代中期の古墳です。

堺市役所の21階展望台から見た大山古墳

    奈良県箸墓古墳

この古墳時代の主要な古墳を作る場所が奈良から大阪へ移動するという現象は、考古学者・古代史学者のなかでも長年、議論の的となっています。

でも、最古の古墳とされる3世紀中頃の箸墓古墳は奈良にありますね。古墳時代前期には奈良に古墳が作られるのに、次の古墳時代中期になると、大阪にこんなに大きな古墳が集まるようになるのはどうして?と思いませんか。


近畿地方中部の大規模古墳の変遷(白石太一郎氏原図を改変)
ある学者は、王の本拠地は常に奈良にあり、お墓を造る場所だけ大阪に移ったのだと考えます。またある学者は、お墓はその王の本拠地に造るものだから、奈良に本拠地をもつ勢力に替わって、大阪に本拠地を持つ勢力が王になったと考えます。
○西摂地域(猪名川流域)にあらわれた変化
実は奈良から大阪へ、というほど大がかりなものではありませんが、日本列島の各地で、古墳の造られる地域が移動して行く現象、すなわち「首長系譜の変動」が知られています。この長尾山古墳の周辺でも、前期には各地で造られていた有力古墳が中期になると豊中台地のみとなり、それが後期になると池田や長尾山丘陵に移ってしまうという見通しを話しましたよね。
これは、ひとつの地域を治める首長が交替したことを示します。

この交替をその地域のなかで、地域の政治の担当を持ち回りで行ったと説明する意見もあります。この場合は古墳時代は地域間で激しい争いはなく、比較的平等な社会に近かったことになります。

これに対して、この変動は一地域のみの独立した動きでなく、列島規模でいっせいに起きていること、また巨大な前方後円墳が奈良から大阪に移動する時期と一致していることから、ヤマト政権中央の政治変動とかかわっているのではないか、という考えもあります。中央と地方が連動しながら動いていくとすれば、古墳時代の社会は中央の影響力が強く、列島規模で政治的まとまりのはっきしりた「国家」に近いものだったことになります。

勝福寺古墳後円部第1石室
大阪大学考古学研究室では西摂の古墳時代史を明らかにすることを通して、古墳時代社会の特徴を考古学から追求するために、猪名川流域をフィールドとして選びました。2000〜2004年に調査を行った川西市勝福寺古墳では、古墳時代後期の長尾山丘陵に当時の新しい政権と密接な関係を持った有力首長がいたことを明らかにしました。
猪名川流域では今のところ古墳時代前期には群雄が割拠したものの、中期には豊中台地に有力首長の古墳が集中し、後期に首長系譜が「変動」して池田地域や長尾山丘陵に有力古墳がふたたびあらわれるという見通しを持っています。

昨年度行った発掘調査の結果、長尾山古墳は古墳時代前期の前方後円墳である可能性が高くなりましたが、もっと詳しい造られた時期や、古墳の正確な形はいまだわかっていません。今回の調査で、これらの点が明らかになれば、長尾山古墳が古墳時代前期の猪名川流域でどのような位置を占めるのか、わかってくると考えられます。

《挿図出典》
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館1997『大和の考古学 常設展示図録』
白石太一郎1999『古墳とヤマト政権』文春新書
岡野慶隆・寺前直人・福永伸哉2006『川西市勝福寺古墳発掘調査報告』川西市教育委員会
長尾山古墳測量・発掘調査2007
長尾山古墳測量・発掘調査2007