待兼山古墳群がつくられたのは、3世紀中頃から7世紀頃まで約400年間続いた古墳時代です。この時代は、弥生時代と奈良時代の間にあって、日本列島がはじめて国家としてのまとまりを形成していった激動の時代です。ただし、400年間ずっと同じだったわけではなく、大きく分けて前期・中期・後期・終末期という4つの時期に分けられています。  ここでは、最も古い前期から見ていくことにしましょう。
奈良県箸墓古墳(最古の古墳)
前期  3世紀中頃、女王卑弥呼が亡くなったとされる頃、近畿地方の大和(奈良県)を中心に、瀬戸内海沿岸にかけて前方後円墳という「かぎ穴」に似た形をもつ有力者の墓(古墳)が造られるようになりました。古墳時代の始まりです。  大阪大学考古学研究室が2007年から2011年にかけて調査した宝塚市長尾山古墳と、今年度に調査する待兼山1号墳・2号墳は前期につくられた古墳です。
 前方後円墳は、弥生時代の墓に比べて、巨大であるばかりではありません。形や大きさ、そして棺の収め方や、お葬式のまつりのやり方も統一されるようになります。また、古墳の形には、右図のように、前方後円墳のほかに、前方後方墳、円墳、方墳などの種類があり、この形と、大きさを組み合わせることで、葬られた人の身分や立場を示すことができます。
墳形と規模の関係 (都出氏原図をもとに作成)
大阪府大山古墳 中期  これらの古墳造りの決まりごとを定めたのが、大和を中心とした有力者(豪族)たちの連合であるヤマト政権です。  5世紀になると鹿児島県から岩手県まで、全国各地に前方後円墳が造られるようになる一方、ヤマト政権の中心の一つである河内(大阪府)には、墳丘長400mを超す巨大な前方後円墳が造られ、ヤマト政権の王である大王は、ますますその力を強めたと考えられます。
後期  大阪大学が2000年から2004年にかけて調査をした川西市の勝福寺古墳は、これに続く6世紀初めに造られた前方後円墳です。次の章で触れますが、ここに葬られた豪族は、この頃にあらたに登場した大王の動きと密接な関係にあったと考えられます。
兵庫県川西市勝福寺古墳
群集墳(奈良県橿原市新沢千塚古墳群) 小さくぶつぶつと見えるのが古墳です
 さて、6世紀の後半になると、古墳は大きなものばかりでなく、直径10m程度の小さな古墳が、山の麓や谷間に集まって、造られるようになります(群集墳)。日本の古墳の8、9割を占めるこれらの群集墳は、有力者のあかしである古墳築造が、より身分の低い人にも許されたということとともに、ヤマト政権の力が、そうした階層にまで、及ぶようになったことを示します。
終末期  聖徳太子が推古天皇の摂政となる7世紀になると、古墳はなお造られるものの、前方後円墳は造られなくなります。  蘇我氏や聖徳太子によって飛鳥寺や法隆寺が造られたように、古墳のまつりのかわりに、仏教のまつりに力が注がれるようになってきたのです。
聖徳太子と法隆寺
平城京朱雀門
 そして710年、元明天皇は唐(中国)にならって壮大な平城京を造り、都を移します。一方、最後まで造られていた、貴族の古墳は同じ頃に姿を消し、時代は奈良時代へと変わります。古墳によって、身分や立場を表さなければならない時代は終わりました。法律(701年に定められた大宝律令)によって、人々の身分や政治の仕組みが定められる国家、すなわち、律令国家が始まったのです。
 それでは、以上にみるような古墳時代の時代の移り変わりについて、  これまでどのような研究が行われてきたのかをご紹介することにしましょう。
次は.....
《挿図出典》 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館1997『大和の考古学 常設展示図録』 都出比呂志1989『古代史復元6 古墳時代の王と民衆』講談社 寺前直人・福永伸哉2007『勝福寺古墳の研究』大阪大学勝福寺古墳発掘調査団