大阪大学豊中キャンパスは待兼山と呼ばれる山の上に所在しています。待兼山からはこれまで、弥生土器や埴輪など、過去の人々が残した多くのモノが出土しており、待兼山遺跡と呼ばれています。  ここでは、本年度の発掘調査と関連する古墳時代を中心として、待兼山遺跡の歴史について紹介していきたいと思います。  なお、豊中キャンパス内の建物や遺構の位置の詳細についてはこちらをご覧ください。
建物後方左は待兼山の山頂
 これまで、待兼山遺跡からは弥生時代中期から後期の土器や石鏃(石のやじり)などが出土しています。このことから、待兼山遺跡では弥生時代から人々が活動していたことが分かります。
待兼山1号墳出土の遺物 青銅製の鏡と石製の腕輪
 つづく古墳時代になると、待兼山には多くの古墳がつくられました。現在までのところ、合計6基の古墳があったことが分かっています。  キャンパスの北東隅のプールの西側にはかつて待兼山1号墳(待兼山古墳)が所在していました。大正時代に行われた宅地開発のため無くなってしまいましたが、そのときに「唐草文帯四神四獣鏡」という青銅製の鏡や、「鍬形石」「車輪石」「石釧」という石でできた腕輪が出土しました。これらは、古墳時代の前期と呼ばれる時期に古墳に副葬された考古遺物であり、ここに前期古墳があったことが分かるのです。

 また、待兼山の山頂付近には古墳状の高まりがあり、付近から古墳時代前期の土器が拾われていることから、待兼山2号墳と呼ばれています。キャンパスの西南にあるテニスコートの近くからは、古墳時代中期の円筒埴輪が出土し、この付近に古墳が2つあったことが分かりました。それぞれ待兼山3号墳、4号墳と名付けられました。
 2005年には、阪急宝塚線石橋駅方面へと向かう通称「阪大坂」の下にある待兼山5号墳が発見され、発掘調査が行われました。  調査の結果、この古墳が古墳時代中期中ごろの直径15mの円墳であることが分かりました。墳丘の大部分は、後世に削られて無くなっていたものの、古墳を囲む溝が残っており、そこから多くの埴輪が発見されました。埴輪の種類は、円筒の埴輪だけでなく、馬形埴輪、家形埴輪、蓋形(きぬがさがた)埴輪といったいわゆる形象埴輪(器物や人物をかたどった埴輪)も多くあります。  この場所は、現在駐輪場となっており、5号墳についての案内板も立っています。また、すぐ近くの大阪大学総合学術博物館には、ここから出土した埴輪が展示してありますので、ぜひご覧ください。  さらに、大阪大学正門のすぐ近くには、現在「大高の森」と呼ばれている場所に石塚古墳という前方後円墳が存在していたとされています。付近では古墳時代中期の埴輪の破片が出土しています。 発掘調査時の5号墳
調査後、整備された駐輪場
 そのほか、待兼山遺跡からは奈良時代の土器の棺や中世の火葬墓、戦国時代に築かれた城の堀の一部とも考えられるV字状の溝などが見つかっており、古墳時代のあとも継続して人々が活動していたことが分かっています。  今回の大阪大学考古学研究室の調査では、上で触れた古墳のうち、よく分かっていないことが多い待兼山1号墳と2号墳に関連した調査を行います。1号墳では、プールの横を発掘し、消滅した古墳に関わる情報の収集を行います。また、古墳の存在が予測される2号墳では、測量図をつくるとともに、発掘によって古墳の範囲の確認をする予定です。さらに、かつて古墳時代前期の土器が拾われている地点の近くも調査を行います(調査予定地)。  では、これらの古墳の情報を明らかにすることが今後、古墳時代の研究でどのように意味を持ってくるのかについて、古墳時代や古墳時代についての研究へと話を進めてながら、探っていくことにしましょう。
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《挿図出典》 大阪大学埋蔵文化財調査室2008『待兼山遺跡』Ⅳ 大阪大学埋蔵文化財調査委員会 豊中市史編さん委員会2005『新修豊中市史』第4巻考古