10月26日現在、調査は進展を見せています。後世の攪乱の影響で遺構の残りは決して良くはありませんが、蔵屋敷に関係する遺構、また明治期の遺構など興味深い成果が上がってきています。

今回発掘調査を行っている大阪大学中之島キャンパス跡地は、大阪大学医学部の前身である大阪医学校の存在した場所です。

大阪における最初の病院は明治元年(1868年)に出来た大阪府所管の仮病院です。明治2年7月には鈴木町代官屋敷跡に大阪府病院が完成し、ここに移りました。同時に医学校が開設され(大阪医学校)、1月に大阪医学校病院として開校し、翌3年、病院は大阪府から大学(後の文部省)直轄に移り、大阪病院となりました。

明治5年、大阪医学校病院が学制改革に伴って廃止されると、大阪の豪商300人あまりが出資して大阪府病院を設立します。この病院には教授局が設けられ、オランダ人医師エルメレンスの下、医学講義が行われました。大阪府病院は当初北御堂に所在していたのですが、場所が手狭になったため明治12年、北区常安町に新築移転の上、大阪公立病院と改称しして開院しました。ここでも講義は行われたのですが、翌年教授局が分離独立し、府立大阪医学校になりました。今日の大阪大学医学部の直接の前身です。

その後医学部は長くこの地にあり、附属病院とともに大阪の人々にも親しまれていたのですが、建物の老朽化に伴い、平成5年現在の吹田キャンパスに移転しました。

さて今回の発掘調査でいくつか明治時代の大阪医学校に関連すると思われる遺構が検出されています。


(写真1)

写真1は煉瓦積みの土管です。土管のつなぎ目がセメントではなく漆喰で固められていたことから、明治時代でも最初の頃のものであると考えられます。

(写真2)
写真2は石で作った溝または水路のようなものです。写真1の土管の上に存在しているため、明治以降の遺構であると思われます。石の大きさが全くそろっていないことから、もともとここに存在していた蔵屋敷に用いられていた石を抜いて再利用して作ったと考えられます。

大阪大学中之島キャンパス跡地の中でも、現在調査している区域は、江戸時代に久留米藩蔵屋敷がおかれていた位置に相当します。久留米藩の蔵屋敷については、建物の平面図の他、『御田祝』とよばれる絵図が残されています。この絵図は慶応三年(1867年)眉山玉震という画家が久留米藩蔵屋敷の年中行事・蔵入れや蔵出しの様子、天神祭船渡御や水天宮祭の光景を三十八図にわたって描いたもので、大阪の旧家に伝わっていたものです。このホームページの表紙を飾る絵図はそのうちの一つで出米の様子を表しています。

久留米藩蔵屋敷の平面図におおよその調査範囲を重ねた図はこちら

(写真3)
現在調査している区域はほぼ江戸時代の久留米藩蔵屋敷の範囲に該当します。写真3・4は調査区の東橋で検出された遺構で、久留米藩蔵屋敷と広島藩蔵屋敷の境界の溝を作っていたと思われる石組です。


(写真4)
写真4で、右側が広島藩蔵屋敷、左側が久留米藩蔵屋敷にあたり、左の石組は本来右側と同じ高さまで積まれていたと考えられます。向かって奥が北側にあたり、フェンスの向こうに堂島川が流れています。


(写真5)
写真5は井戸と考えられます。これは久留米藩邸平面図に載っている井戸と位置がほぼ一致するようです。中をまだ掘り下げていませんので詳しくはよく分かりません。


(写真6)
写真6はゴミ捨て穴と考えられます。穴を掘り、底に皿や壷の破片などが乱雑に埋められています。一度穴が埋まった後、もう一度少し掘って甕をすえて、トイレに利用していた様子も見受けられます。こういったゴミ捨て穴は数カ所検出されています。


(写真7)
写真7はゴミ捨て穴から出土したかんざしです。

(写真8)
写真8もゴミ捨て穴から出土したもので、あわびの殻です。当時の食生活の一端を知ることが出来ます。


このようにこれまでのところ、明治時代の医学校の様子や、江戸時代(特に幕末)の蔵屋敷の様子の一部が判明してきています。今後はさらに江戸時代でも古い遺構の検出や、中之島の埋め立てに関する資料の検出を図り、蔵屋敷の具体像解明に努力していきます。

<参考文献>
大阪市1989『新修大阪市史』
大阪市教育委員会・(財)大阪市文化財協会2001『広島藩大阪蔵屋敷跡発掘調査(HS00−1次)現地説明会資料』
大阪大学1991『OSAKA UNIVERSITY 60』
大阪府1985『大阪府史』 
尾崎雅一1982『久留米藩大阪屋敷絵図−御田祝』
鈴木直三1938『徳川時代の米穀配給組織』

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