待兼山5号墳

  待兼山5号墳の概要

【待兼山5号墳の発見】
5号墳の埴輪
 待兼山5号墳は、1998年に行われた旧医療技術短期大学跡地の文化財試掘調査ではじめて存在が判明した古墳です。このときは細長い試掘溝の一部で古墳の周溝らしい落ち込みと円筒埴輪片が検出されました。
 古墳というとうっそうとした木々が生えた高まりを想像されると思います。
 しかし、近年の埋蔵文化財の調査の進展により、墳丘とよばれる高まりが削られてしまったり、埋まってしまったりして、人目では古墳と分からないようなところにも古墳が存在する事例が、増えてきました。このような古墳は、埋没古墳とよばれ、比較的小規模なものが多いです。
【待兼山5号墳の調査経過】
 5号墳は、現在の地表からおよそ80p下から、みつかりました。調査は大阪大学の敷地内でも豊かな里山が残る待兼山において、埋蔵文化財がどのように残存しているかを確認するために、小さく調査を実施する最中にみつかりました。部分的な調査でしたので、その全容は不明ですが、埴輪を伴う溝がみつかったことから、一辺10m程度の方墳であることとみられます。
【5号墳の意義】
 最大で墳丘長500m近い巨大古墳が築かれた古墳時代において、一辺10mの方墳とはいかにも小さく貧弱に思えます。
 しかしながら、待兼山丘陵の所在する猪名川流域は、瀬戸内回廊の終着点として、ヤマト王権の重要な拠点のひとつであり、その拠点の実質的な運営を行ったであろう5号墳の被葬者像の解明は、文献では知ることのできない政治的、社会的な地方と中央の関係をしることのできる重要な手がかりとなり得るのです。