第5章 危機と変化の時代
―1890年-1901年―

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オーストラリアよ!!公明正大であれ!!

現在、国歌の歌詞になっている「オーストラリアよ!!公明正大であれ!!(Advance Australia Fair)」は、1878年にピーター・マコーミック(Peter McCormick)によって書かれた詩に由来しており、旧世界が抱える様々な問題とは無縁な新世界のすばらしさを謳ったものである。同詞が示している通り、オーストラリアは、社会的な流動性が高く豊かな資源に裏打ちされた若くて自由な国であった。新世界の素晴らしき大陸。それが、人々が、彼の地に抱いた理想だったのである。しかし、1890年代にはこの「理想郷」に現実的な難問が降りかかることになる。

同時期を通じてオーストラリアに課された社会・経済的な試練は、多くの変革を誘発した。無論これらの経済的・社会的な課題が連邦の結成に直結したわけではないが、山積みされた問題は、真の公明正大なオーストラリア連邦結成にむけた具体的で継続的な努力を喚起することになるのである。連邦結成は、ある種、各植民地政府が抱える利害や関心を調整するプロセスであったといえよう。これらの利害や思惑の対立は「国民全体の幸福(コモンウェルス)」という目標に向かうなかで解消されていく。本章では、1890年代にオーストラリアを襲った試練を概観し、それらの試練が連邦結成というベクトルに収斂していく過程についてみていく。

 

本文

T. 課された試練

◆ 金融恐慌

1890年代初頭、オーストラリアをベアリング・ショックが襲う。1890年のベアリング商会の破綻により、イギリス資本に依存していたオーストラリアは重大な損失を被ることとなった。土地投資会社は軒並み倒産し、彼らに過剰な貸付を行っていた銀行も連鎖的に破産した。同金融恐慌によって、オーストラリアの東部植民地にあった18の銀行のうち12が破綻し、金融機能は麻痺する。1891年から1895年にかけて国民総生産は約30パーセント下落し、失業率は20パーセントほど増加することになる。オーストラリアには中央銀行がなく、発券銀行が金融システムの中枢を担っていたことも事態を悪化させる要因となった。1893年以降、その発券銀行が連鎖的に倒産する。1月28日にはフェデラル銀行が、4月4日にはコマーシャル銀行がそれぞれ破産し、同年初めには18あった発券銀行のうち、12が営業停止に追い込まれた。金鉱の発見によって唯一ベアリング・ショックを逃れることができた西オーストラリアをのぞいて、オーストラリアの金融・経済は壊滅的な打撃をうけたのである。

◆干ばつ

1890年代半ばには、オーストラリアを天災が襲う。1895年に起こった干ばつは、人口密度の高い東部において深刻な水不足をもたらした。この水不足はすでに過重な放牧によって痩せていた大地に深刻な影響を与えることになる。1895年から1903年までに3500万頭の羊が死ぬなどその影響は壊滅的であった。また、狩猟のために導入されていたウサギが野生化し、害獣となって作物に影響を与えたことも事態を悪化させる要因となった。ウサギから作物を守るために長距離にわたってフェンスが作成されたものの、ほとんど用を成すことはなかった。恐慌によって生み出された都市の失業者が職を求めて農村に流入すると、地方を取り巻く環境は更に悪化することになる。

◆労使対立と労働党の結党

1890年に、オーストラリアには12万人の労働組合員がいた。彼らは8時間労働、賃金の引き上げなどを求め対決姿勢を強めていた。雇用者たちも雇用者連合を結成し契約の自由の原則を掲げてこれに対抗した。1890年代には、不況による雇用者側の圧力を背景として、ストライキが頻発する。1890年8月の航海士組合のストに端を発し、約5万人が参加した植民地時代最大のストライキである海運ストライキがその代表例である。他にも、1893年の羊の毛刈り職人によるストライキなどがあった。結果だけみれば、これらのストライキは雇用者側の完勝におわる。しかし、労働運動のリーダーたちは、法や警察機構が雇用者側を益する形で作用していることを学び、議会にメンバーを送り社会改革を志向することになる。ニューサウスウェールズの労働組合評議会は、労働者選挙連盟を結成し、1891年の総選挙において、定数141議席のうち35議席を獲得することに成功する。各植民地において形成された労働党は、自由貿易推進派や保護貿易推進派といった他の政治勢力の政党化に寄与した。とりわけ保護貿易推進派は、工場法の制定や労働仲裁制度などを謳い実現していくことになる。植民地の政治は植民地内の労働者の利害・関心を包摂した形で展開することになるのである。

U. 連邦結成にむけた諸要因

◆ 対外的な脅威

中国・香港における駐留英軍において陸軍准将を務めていたジェームス・ビヴァン・エドワーズ(James Bevan Edwards)は、「オーストラリア植民地は有事の際に自らを防衛する能力に欠けている」とする報告書を1889年に提出し、協同防衛の必要性を説いた。従来オーストラリアを防衛していたイギリス軍は、1870年9月にオーストラリアを離れ、オーストラリアは軍事的に空白状態となっていた。1901年の連邦結成時に連邦に移管された兵力が約3万人で、その装備は不統一であり、多くは旧式のものが採用されていたことを考えれば、1890年代のオーストラリアの防衛が完全であったとは言い難い。しかし、兵力不足と比してオーストラリアを取り巻く防衛的な状況は悪化することになる。ドイツのニューギニア併合やフランスのニューヘブリディーズへの進駐の可能性が取り沙汰されるようになって以降、南太平洋の防衛は課題となる。1883年には、シドニーでオーストラリアの植民地政府とフィジーを含めた南太平洋の防衛に関する協議が行われる。オーストラリア大陸の防衛を如何に成し遂げるか。この課題は1890年代を取り巻く1つの政治的な課題であったといえる。

◆ 移民問題

1890年代までにオーストラリアは社会進化論に基盤を置く人種差別的な理論を構築していった。同理論においては、アングロ・ケルトの優秀性が一貫して吹聴され、対照的に有色人種の劣等性が盛んに論じられることになる。シドニーの『ブリティン』は1890年代に、「オーストラリア人のためのオーストラリア―低賃金の中国人、低賃金の黒人、そして低賃金のヨーロッパの貧困者は断固として排除されるべきである」との表現を好んで使用していた。低賃金の中国人が大挙して押し寄せるという「平和的な侵略」に関する言説が流布するなかで、オーストラリアは中国人規制に乗り出すことになる。各植民地政府はそれぞれ入港時の総量規制や総トン規制を通じて移民排斥を試みるも、植民地政府の個別の対応では効果が薄いことが明るみになった。

◆ 統一関税

1870年には、本国政府の承認を受けてメルボルンにおいて関税同盟を議題とする会議がメルボルンで行われた。同会議においては、統一関税が望ましいという点では一致したものの、工業製品と非工業製品の区別を要求するヴィクトリアとそのような区別を認めないニューサウスウェールズの対立がみられた。連邦結成にむけた運動のなかで、政治家たちは、投資やビジネスの機会の拡大をもたらすものとしてそのメリットを説いていたが、ニューサウスウェールズとヴィクトリアの対立からもわかるように、いかに統一関税を成し遂げるかという問いに関するコンセンサスはなく、同問題は連邦結成の要因であるとともに障害でもあった。

V. 連邦結成にむけて

◆ 一枚岩になれないオーストラリア

1890年代は連邦結成にむけた動きが現実的な課題となる一方で、各植民地の対立意識や利害関心の違いが浮き彫りになる。例えば、サトウキビ畑において年季奉公人として導入されていたカナカ人は、クィーンズランドにおいては低賃金労働者として重宝されていたものの、白色人種の優勢性を大事にする他の植民地政府から批判の対象となる。帰結として、クィーンズランドは、連邦結成の際に領土を3分割し、個別に連邦参加を検討するという選択肢を考慮することになる。また、南太平洋の防衛の観点からフィジーの連邦参加も考えられていたが、人種的な理由により排除される。ニュージーランドの連邦参加は先住民政策の違いによって実現しなかった。比較的寛容なマオリへの政策に連邦が介入することを嫌ったのである。防衛の問題も同様で、各植民地間の対抗意識によって軍隊の輸送に必要な線路の規格統一は1960年代まで実現せず、ボーア戦争への派兵も植民地ごとに行われた。連邦結成は不可避の帰結ではなく、これらの利害関心を乗り越えるためのプロセスを必要としていた。

◆ 連邦結成にむけた動き

政治的な場面に視点を移せば、ニューサウスウェールズの首相であるヘンリー・パークスが1889年に連邦結成にむけた植民地間会議の開催を提案したことで連邦結成への動きが本格化することになる。1890年にはパークスの主導により連邦結成を主題とする会議がメルボルンで開かれ、翌年には憲法制定会議が開催される。しかし政治的な運動は、ここで一時減速することになる。パークスを首相に戴くニューサウスウェールズは、連邦結成にむけた主要な勢力でありながらも、歴史的にみれば連邦結成に否定的であった。そのパークス政権が労働党の台頭によって崩壊したことが連邦結成にむけた運動が減速した要因である。

◆ 下からの運動

政治の局面における連邦結成の運動が下火になったことをうけて民衆レベルでの運動が活発になる。連邦初代首相となるエドモンド・バートンは、シドニー郊外の地方都市で連邦結成にむけた会合を開く。ヴィクトリアにおいて連邦結成運動を主導したのは、オーストラリア出生者協会(ANA)であった。これらの地方に根付く民衆の運動は1893年にコロワ会議として結実する。ANAのメンバーであるジョン・クイックの提言により1897年の憲法制定会議の代表は、基本的に直接選挙で選ばれることになった。当時、オーストラリアの選挙制度には、財産による制限や優遇措置があったが同選挙は1人1票の平等選挙の原則が採用された。また同投票は1894年に南オーストラリアで選挙権を獲得したばかりの女性を投票者に含めるなど、一部では普通選挙が実現した。どちらも完全な普通・平等選挙ではなかったとはいえ、これらは世界でも類を見ない画期的な出来事であった。

◆ いざ連邦へ

1897年の憲法制定会議において起草された憲法の草案は、1898年に国民投票に付されることになる。西オーストラリアとクィーンズランドを除く4つの植民地で過半数を超えたが、そのうち、ニューサウスウェールズは、最低賛成投票数である8万票に達することができなかった。この事実を考えれば、連邦結成を直前に控えた1898年の段階においても、連邦決定は規定路線ではなかったといえよう。1898年の国民投票において、賛成票が多数を占めたのは、南オーストラリア、ヴィクトリア、タスマニアの3つであった。これらの連邦結成に献身的な植民地政府は、他の植民地政府、とりわけニューサウスウェールズを取り込もうと譲歩することになる。ニューサウスウェールズからの支持を取り付けるために、連邦の首都をシドニーから100マイル以上はなれた、ニューサウスウェールズ内に建設するという提案が承認された。翌年の憲法改正投票においては、西オーストラリアを除く5つの植民地が賛成することになる。また、憲法の草案がイギリスに認められたことで、西オーストラリアも国民投票を行い、連邦に参加することになり、ようやく連邦結成にむけた足並みがそろうことになった。

◆ オーストラリアンナショナリズム

1890年代までにアングロ・ケルト系の優勢性を誇るナショナリズムが構築されたことは前述の通りであるが、一方でオーストラリアの独自性を主張する植民地ナショナリズムが存在した。エセル・ターナーの『7人の小さなオーストラリア人』やジョゼフ・ファーフィの『人生とはこんなものさ』が出版されたのもこの時代である。1890年代には、これらの著作のようにナショナリズムが高まりをみせることになる。しかし、イギリス本国からの独立を志向する運動には繋がらなかった。ロードヤード・キプリンの『若き女王』に示されているとおり、連邦結成にむけた運動は古き女王(イギリス)に認められるためのある種の通過儀礼であったといえよう。91年の憲法制定会議において草案作成に主要な役割を果たしたクィーンズランド植民地政府首相のサミュエル・グリフィスは、なぜ連邦結成を支持したのかとの問いに対して以下のように述べている。「植民地であることに疲れたからである」と。「若き女王の戴冠」を目指す1890年代は、未熟な女王が傷つきながらも、栄えある未来のために制度・理念的な基盤を固めていった時期であるといえる。利害や関心に大きな隔たりがあった植民地政府がお互いに妥協点を探るなかで、20世紀のオーストラリアを形容する白豪主義や平等の原則や労働者の天国といった制度や理念が整備されることになっていったのである。しかし、その平等には、先住民族やアジア系の移民は含まれておらず、労働者の天国は主に男性を対象としたものであった。とりわけ、連邦結成を前に短期的に「解決」された先住民族やアジア系移民に関する問題は、20世紀を通じてオーストラリアに課題を突きつけることになるのである。   

参考文献


山本真鳥編『オセアニア史』2000年

藤川隆男編『オーストラリアの歴史』2004年

Helen Irving, 'How the nibble became a bite:what was the cause of Federation', Tasmanian Historical Studies, vol.8, no.1, 2002 pp.18-24

John Hirst, 'Article :When AUstralia was a Woman:A point of view about Federation' From national Centre for History Education

Marilyn Lake, 'Federation and Repression of Difference:the Gendered Relations of National and International Governanace',Tasmanian Historical Studies, vol.8, no.1, 2002 pp.5-17



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