第6章 連邦の結成
―1901-1929―

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さぁ内と外を隔てよう

1901年1月1日、20世紀のはじまりとともに、国家としてのオーストラリア連邦、the Commonwealth of Australia が誕生した。この時すでに、先住民を除く全人口の80%以上をこの大陸で生まれ育った人びとが占めていた。新国家の誕生は、オーストラリア社会が植民の時代を終えつつあったことを示している。

しかし、その建国に熱狂はなかった。連邦の結成は、6つの植民地の自発的意思にもとづく平和的なプロセスを経て、静かに達成された。また、イギリス帝国からの自立志向を高めつつあった他の白人自治領とは異なり、オーストラリアは経済的にも精神的にも帝国に依存し、その一員であり続けることを望んでいた。

では建国は何のためだったのだろうか。それは区切るためであった。それは内には同質化と排除を、外には敵と味方を作り出した。新国家オーストラリアはアジア系移民問題と最初の世界大戦に直面する。この内外の激動、白豪主義と第一次世界大戦がオーストラリアをどう変えたのか見ていこう。

本文

T. オーストラリア連邦の誕生

◆静かな誕生

連邦結成から一世紀以上を経た現代に暮らす我われの目からみれば、同じ言語、文化をもち、海によって区切られた境界をもつオーストラリア連邦という国家の成立は、自然な成り行きのようにも思われる。しかし、この時、オーストラリアには、一つになろうという意思も、独立の気運もあまり強くはなかった。事実、連邦結成の動きは、何度も頓挫している。その中で、当初は連邦の統合力がより強くなるカナダ型の連邦モデルが提案されていたが、結局は州権を擁護の性格がより強いアメリカ型の連邦モデルが採用された。

紆余曲折の末ようやく制定された連邦憲法では、オーストラリアの元首はイギリス国王とされる一方、国民の記述はなく、誰がオーストラリア人であるかは曖昧であった。またイギリス本国枢密院への上訴権(最高裁判権)は変更されなかった。その背景には、イギリスからオーストラリアへの莫大な投資の存在があった。裁判の最終結審が行われるのがイギリスであるからこそ、イギリス人は安心してオーストラリアに投資できるというわけだ。イギリスからの投資に依存していたオーストラリアにとって、上訴権を変更しないことは必要であり、それには経済界の支持もあった。このように、連邦結成時のオーストラリアの仕組みを見てみると、イギリス帝国に、精神的にも経済的にも依存していたといえるだろう。

◆なぜ連邦が望まれたか

ではなぜ新たな国家の建設が望まれたのだろうか。この時期、オーストラリアでは、鉄道や電信、スポーツにおけるオーストラリア合同チームの結成、統一時間の採用などで、一体化が進んではいた。しかしオーストラリアという国家の誕生は、そのような一体化を背景にした愛国心の高まりや国家建設の気運からではなく、一体化の進展の中で便宜上要請されたと考えるのがおそらく正しいだろう。

この時期連邦が望まれた理由としてよくあげられるのは、大きく分けて三つある。一つ目は経済的理由だ。連邦として共通の関税を採用することで外に対する産業の保護と、内における自由貿易による利便性の上昇と内需の拡大を図るため、また1890年代の経済危機とその後の労働問題から、より大きな単位で効率的にこの問題に対処する必要が感じられたため、連邦が結成されたといわれている。二つ目は防衛上の理由だ。19世紀末の帝国主義の時代になると、ドイツのニューギニア併合の噂やフランスのニューヘブリデスへの進出計画など、列強の太平洋進出が現実のものとして感じられるようになった。このような対外的脅威に対抗するため、統一的な軍事組織を持つ必要があった、と言われている。三つ目は移民問題だ。ゴールドラッシュ以降の非ヨーロッパ系(主にアジア系)移民を制限するために、オーストラリア全体で包括的な枠組みが必要とされ、そのために連邦が要請されたというのだ。この移民問題の中で、白豪主義と呼ばれる思想と政策がこの時期に形成された。

U. 白豪主義

◆白豪主義の思想

1890年代までに、オーストラリアでは、非白人に対するあらゆる嫌悪や恐怖を説明する人種差別理論が発展していった。その基礎をなす信念とは、白人系の人びとは肉体的にも精神的にもより優れているというものだった。このような態度は、人種差別理論、とくに社会進化論によって助長されたが、それは、ヨーロッパ文明による世界支配が明らかな時代であったからでもあった。

その思想のもとでは、アジア系移民は、白人労働者から職を奪う狡猾な低賃金、低生活水準の労働者とされた。アジア系移民は、その安い労働力によって白人労働者に不当な競争を強い、その低い生活水準のために、需要を生まない、国民の発展に必要な文明的生活水準を不可能にする存在である、という決めつけがなされた。この時期進んだ普通選挙権導入の動きの中でも、アジア系移民は、選挙民に求められる高い水準の政治的知識と憲法の発展に参加する決意を持たない人種として否定された。またアジア系移民は白人女性に対する性的な脅威としても描かれた。白人のオーストラリアの純血を汚すアジア系移民、というイメージは、白豪主義のジェンダー的側面を現している。一方、先住民は「死にゆく人種」とされた。

◆政策としての白豪主義

このような白豪主義の思想のもとで、最初の連邦議会がもっとも重要な課題の一つとして取り組んだのが、非ヨーロッパ系移民に対する移民制限法の制定であった。移民制限法の根幹は、移民に対してヨーロッパの言語で50語の聞き取りテストを行い、合格できなければ入国を認めないという規定だった。ヨーロッパ人はこの規定の適用を免除される一方、非ヨーロッパ人移民に対しては、その移民が理解できないヨーロッパの言語を選んでテストを実施したので、事実上、非ヨーロッパ人の移民は完全に排除された。

また人種差別は移民制限のみならず、帰化の禁止、土地所有の制限、差別的工場法の制定、労働組合からの排除など、様ざまな分野に及んだ。これらによって、政策としての白豪主義が確立する。ジェンダーに関しては、1902年に、白人女性は選挙権と被選挙権を獲得した。しかし、白人女性労働者の基準賃金は、白人男性労働者の半分から3分の2に設定される。そこでは、扶養すべき妻と子を持つ男性と、そうではない女性というジェンダー的役割分担が前提とされていた。一方、先住民は、連邦成立前はニューサウスウェールズ、ヴィクトリア、南オーストラリアで認められていた選挙権を連邦成立後は奪われる。また、国民数を計上する際に、先住民を除外することが憲法に規定された。このような政策も、白豪主義からきたものだろう。

非ヨーロッパ人の移民制限や人種差別は、この時代に、アメリカ合衆国やカナダ、ニュージーランド、南アフリカでも採用されたが、オーストラリアに特徴的なのは、それが国家形成と同時に採用され、国家のアイデンティティの主柱の一つだとみなされるようになったことだ。1970年代にはいるまで、オーストラリアは、白いオーストラリア連邦でありつづけるし、またそうあろうとした。

V.第一次世界大戦とオーストラリア

◆戦争の熱狂とアンザック・ディの誕生

そんなオーストラリアに、時代の波が押し寄せ、新国家ははじめての対外戦争に直面する。1914年からはじまる第一次世界大戦だ。そこでは、イギリス帝国に対するオーストラリア国民の強い帰属心が発露された。戦争の勃発の可能性が高まっていた1914年7月31日、当時野党の労働党党首で、すぐに首相となるアンドリュー・フィッシャーは、オーストラリアが「最後の1人、最後の1シリング」までイギリス防衛を支援するであろうと発言した。イギリスがドイツと戦争状態になったことがオーストラリアに伝わった8月5日、大戦勃発当初の連邦首相、ジョゼフ・クックは「祖国が戦争状態になるならば、われわれもまた然り」と述べ、連邦政府はイギリスに追随するかたちで、ドイツに宣戦を布告する。

建国時と異なり、この「母国」の戦争には、熱狂が大いにみられる。軍への入隊希望を受け付ける事務所が設置されると、大勢の男たちが押し寄せた。戦争の期間中、総人口約500万人のうちの41万弱もの男性が志願兵となり、そのうち約33万人が海外へ派遣された。その第一陣は、1914年11月1日、オーストラリアを発つ。その軍は、ニュージーランド兵との合同軍だったので、「オーストラリア・ニュージーランド軍団」がその正式名称であったが、呼びづらいためその頭文字をとって「アンザック」(ANZAC)と呼ばれるようになった。

アンザック軍団は1915年4月25日に、イスタンブールへの入り口、ガリポリ半島の作戦に投入された。それはこの新国家が経験した最初の大規模な戦闘だった。作戦自体は失敗に終わったが、前線では歴史に参加しているという感覚が共有され、その様子は従軍記者によってオーストラリアで大だい的に報道されて大人気を博した。1年後の1916年4月25日、アンザック軍を称える記念式典がおこなわれ、その後4月25日は「アンザック・ディ」として現代に至るまで祝日となる。この失敗した軍事作戦の記念日は、後にオーストラリア国民意識が誕生した日とされるが、当時においてはそのような意味づけはおそらく当てはまらない。自分たちが帝国の一員として、立派に戦ったことを記念した、と解釈するのが妥当だろう。いずれにせよ、他の国ぐにと同じように、オーストラリアが払った「犠牲」も決して軽くはなかった。オーストラリアは人口の1%を越える約6万人の若い男たちを失い、3億ポンド以上の戦費債務を負うことになった。

◆大戦後の世界とオーストラリア

大戦後の1919年のヴェルサイユ会議で、オーストラリアは自らの払った犠牲を根拠に、独自の代表を立てることを承認させた。しかし、オーストラリアの目的は、その独立性を拡大することではなく、帝国の安全に、イギリスをより強く関与させ、帝国の運営にオーストラリアの意見を直接反映させることであった。1926年の帝国会議とその後のバルフォア報告書の扱いにもオーストラリアのそのような態度が現れている。

その背後には帝国に依存するオーストラリアの姿がある。20世紀の最初の四半世紀、オーストラリアの輸出の7割、輸入の6割をイギリス本国とその帝国が占めていた。しかも大戦後は債務による経常収支の赤字に苦しんでる。帝国の維持とその紐帯の強化は、オーストラリアにとって死活問題だった。しかしオーストラリアが依存し、多大な「犠牲」を払って維持しようとしたイギリス帝国は、徐じょにやせ細り、連邦の置かれた状況は、不安定なものになってゆく。その中で、オーストラリアは、第一次世界大戦のなかで味方だった国と、脅威として向き合わねばならなくなっていくのだった。

参考文献

石田高生『オーストラリアの金融・経済の発展』日本経済評論社、2005

川北稔他編『イギリスの歴史』有斐閣、2000

関根政美『概説オーストラリア史』有斐閣、1988

藤川隆男編『オーストラリアの歴史』有斐閣、2004

藤川隆男『猫に紅茶を〜生活に刻まれたオーストラリアの歴史』大阪大学出版会、2007

藤川隆男『19世紀オーストラリア連邦運動の研究』豊中、2008

山本真鳥編『オセアニア史』山川出版社、2000


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