オーストラリア辞典
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Aboriginal people and sports

アボリジナルとスポーツ


 シドニー・オリンピックのキャシー・フリーマンに見られるように、アボリジナルのオーストラリアのスポーツにおける貢献は特筆に価する。しかし、近年にいたるまでスポーツの領域でも、アボリジナルに対する厳しい差別が存在した。その差別には2つの形態があった。1つは、構造的なものであった。すなわち、政治的、法的、社会的地位の低さを原因とする排除である。アボリジナルは、スクォッシュ・コート、スキーロッジ、ゴルフコースには近寄れなかった。また、もう1つの形は施設的なものである。アボリジナルのほとんどが住んでいる地区やミッションには、文字どおり芝生などはなく、プール、体育館、コート、トラック、ネット、コーチさらに物療士や奨学金などの語はアボリジナルとは無縁であった。

 19世紀の中頃、アボリジナルは比較的スポーツに参加する機会に恵まれていた。スポーツはアボリジナルの文明化の手段とみなされたのである。ところが20世紀が近づくと、アボリジナルの多くは、リザーブ、ミッション、または牧場へと、名前はどうあれ要するに「施設」へ行くことになったのである。それは長い「監禁」の期間であった。アボリジナル・トレス島民スポーツ著名人記念館the Aboriginal and Islanders Sports Hall of Fame に展示された数多くの写真の示す通り、彼らの業績はアボリジナルに対する特別法の廃止と隔離を解かれた後に達成されたものである。

 文明化の時期、クリケットだけが主に行われたスポーツであった。フットボールチームはほとんど存在もせず、ボクシング、徒歩競技などをするものが少数いただけであった。アボリジナルはクリケットに才能を発揮した。

 1850年、南オーストラリアのマシュー・ヘイルMathew Hale 牧師が、プーニンディーPoonindieにおいて、クリケットをアボリジナルに教えた。それは彼らに「市民としての生活習慣を身につけさせるため」であった。このチームは好成績をあげ、多くの白人のチームと戦い勝利を挙げた。また、このチームはアデレイドまで赴き、大学のチームと試合をした。

 1870年代になると、ヴィクトリアのコランダークCoranderrkミッションのアボリジナルは、クリケット選手としても成功を収めるようになった。著名なイギリスの自然主義者H.N.モズリイはここを訪れ、「男たちはみんなヨーロッパ人のように洋服を着ており、W.G.グレイスや、オールイングランド・イレヴンもよく知っていた」と記している。ニューサウスウェールズ、マリー川沿いのカマルーガンガCumeroogungaは数多くのプロのランナー、クリケット選手、ラグビー・フットボール選手を輩出した。しかし、このキリスト教ミッションの創設者、ダニエル・マシューズDaniel Matthewsにとっては、クリケットは「非文明的行動」であった。彼の伝記の著者は書いている。「アボリジナルにとっては、彼らの勇気をスポーツで、とりわけランニングやクリケットで示すことが、白人の世界へのパスポートを得ることなのだ、白人の世界へ入るだけではなく、尊敬や友情までも得ることができると悟ったのだ。」 マシューズはこの道を閉ざそうとした。これに対し、スペイン人のベネディクト派の司祭たちはクリケットを文明化の1つの推進力とみなした。1879年、西オーストラリアのニュー・ノーシアのミッションでは、ドン・サルヴァードウDon Salvadoがクリケットのゲームをミッションに導入した。アボリジナルは片道100キロを歩いて、パースやフリーマントルまで試合に赴き、いみじくも「無敵団」と名づけられた。またクィーンズランドでは、1890年代にアボリジナルはイプスウィッチ近辺のディービング・クリークDeebing Creekでもクリケットを行った。

1860年代のヴィクトリアでは、牧畜業者の息子たちがアボリジナル労働者にクリケットを教えた。ウォレス湖地域のアボリジナル・チームとジェントルマンのチーム、メルボルン・クリケット・クラブが試合をすることになった。1866年12月26日メルボルン・クリケット・グランドの1万人の観客が見る前で、メルボルンの全住民の応援を背に戦い、この(エイジ誌呼ぶところの)「ブッシュの子どもたち」は9点差で敗退した。その後、ホテル経営者であったチャールズ・ロレンスCharles Lawrenceはアボリジナルのチームを訓練してイギリスに遠征させた。

1868年5月、オーストラリア最初のクリケットチームが海外に遠征したのはアボリジナルのチームであった。彼らはイギリスで47試合行い、14勝14敗19引き分けの成績を収めた。ジョニー・マラーJohnny Mullaghとカゼンズ Cuzensはきわめて優秀な選手であった。カゼンズは1879年、対タスマニア戦に出場、マラーは1879年、対ロードハリス英国遠征チームの試合に出場、活躍した。ハロウにあるジョニー・マラー公園は、この「高潔な模範的人物」を記念して、彼の名を冠せられている。また、徒競走者のプリンスとして、チャーリー・サミュエルズがいた。このクィーンズランドのアボリジナルは1886年、13.2秒で136ヤードを走り、300ヤードでは30秒の記録を出した。1888年には、100ヤード9.1秒という信じられない記録を残している。またボビー・マクドナルドBobby McDonaldは、クラウチング・スタートの発案者だと言われている。

 19世紀末にはアボリジナルに対する法的、物理的隔離が進行していた。1895年にはプーニンディーが閉鎖された。コランダークのアボリジナルは激しく戦い、彼らの農地が近隣の白人たちに取り上げられるのを防いだ。しかし、同化政策によりミッションの人口は減少した。事実、カマルーガンガの人口は、394人から134人まで激減した。クィーンズランドと西オーストラリアでは、これがスポーツ分野にも及んだ。合法的人種差別が進み、保護の名目で先住民保護官ロスはイプスウィッチの人々の隔離を開始、彼らを遠隔の地に送った。「奴らは、明らかに、クリケットでヨーロッパ人と張り合って、自信過剰となった不満分子である。本来の地位以上の取り扱いを受けていたのだ。」というのが彼の考えであった。ニュー・ノーシアのクリケットチームも1905年には解散させられた。

 20世紀になると法による制限のもと、スポーツの機会は非常に限定されたものとなった。その中で、ジャック・マーシュJack Marshとアルバート・ヘンリーAlbert Henryはクリケットで活躍した。彼らは1901年から1904年までシェフィールド・シールド州対抗戦でプレーした。ニューサウスウェールズのM.A.ノーブル選抜委員は、彼らをオーストラリアのために出場させるにはまだ程度が低いと判断した。彼は「技量ではなく、色」を判断の基準としたのである。2人は非業の死を遂げた。マーシュは、ニューサウスウェールズのオレンジの町の路上で蹴り殺され、ヘンリーは、アボリジナル収容施設ヤラバーYarrabahに送られ、29歳で死亡した。ジェリー・ジェロウムJerry JeromeのダルビーDalbyの雇主は、彼にアボリジナル規制法からの免除を取得させた。その後、彼は33歳でボクシングを始め、1912年、オーストラリアのミドル級チャンピオンとなった。これはこの後に続く、アボリジナルによる多くのタイトル獲得の始まりとなった。彼もまた無一文でシャーバーグで1950年に死亡した。ボクシングとプロの陸上競技だけがアボリジナルに許された領域であった。陸上競技ではトム・ダンシーTom Dancyは1910年、ストール杯で1位に、同じく1928年にはリンチ・クーパーLynch Cooperが1位になった。クーパーは1929年の世界スプリント選手権で優勝している。

 クマルーガンガからは優れた運動選手と、優れた政治的活動家が輩出した。ダグ・ニコルズDoug Nichollsはその代表であり、陸上競技、ボクシング、オーストラリア・ルール・フットボールで活躍した。そして第2次世界大戦後には、南オーストラリアの総督に就任することになる。オーストラリア・ルールに最初のアボリジナルの選手、ニコルズが採用されるには、60年の歳月を要した。これは彼らがスピード、才能に欠けたからではなかった。アボリジナルは、常にリングでもトラックでもその才能をいかんなく発揮していた。1930年代は多くの素晴らしい黒人ボクサー、「飢えたる闘士たち」の時代の幕開けとなった。ロン・リチャーズRon Richards(クィーンズランド)は3階級でナショナル・チャンピオンとなった。また、ディック・ジョンソン、リン・ジョンソンDick and Lyn Johnsonの兄弟がニューサウスウェールズのラグビー・リーグでアボリジナルとして初めてプレーした。1930年代にはエディ・ギルバートEddie Gilbertが、クィーンズランドのクリケット競技場で観衆の喝采を受けていた。彼は速腕投手であった。

 抑圧と差別は戦時中も戦後も続いた。ニコルズの10年後、オーストラリアン・ルールにようやく2人の選手が採用された。メルボルンにエディ・ジャクソンEddy Jackson(1947-52)と、もう1人はニコルズと並ぶ選手であったノーム・マクドナルドNorm McDonaldである。デイヴ・サンズDave Sandsは6人のボクシング兄弟の中で最強であった。3階級のオーストラリア・タイトルを制覇し、大英帝国のミドル級チャンピオンにもなった。ボクシングは最も手っ取り早い儲け口、出世の道、そしてささやかな社会進出への道だった。この頃、クィーンズランド出身のエリー・ベネットElley Bennettがオーストラリアのバンタム級とフェザー級のタイトルを獲得、同じくクィーンズランド出身のジャック・ハッセンJack Hassenはライト級のチャンピオンとなった。ジョージ・ブラッケンGeorge Brackenは、ライト級のチャンピオンになった。アボリジナルの男にとって、スポーツへの門が非常に狭いものであったとすれば、女性にはなおさら険しい道であった。フェイス・トマスFaith Thomasはこの中で、重要な役割を果たした。1950年代、彼女はオーストラリア・クリケットチームの代表選手としてイングランドと対戦した。彼女は記録に残る最初のアボリジナルの女性スポーツ選手であった。

 1960年代になると、アボリジナルの状況は多少改善された。多くの抑圧的法律が廃止された。ますます多くのアボリジナルのチャンピオンが、ますます多くの種目で出現した。1962年のパースでの帝国・コモンウエルス大会で2つの金メダルをアボリジナルが手にした。パーシー・ホブソンPercy Hobsonが高飛びで、ジェフ・ディニヴァーJeff Dynevorはバンタム級ボクシングで金メダルを得た。マイケル・アーマットMichael Ahmatt、ジョン・キンセラJohn Kinsella、ジョー・ドノヴァンJoe Donovanたちは、1968年のメキシコ・オリンピックでオーストラリア代表のユニフォームを着て、それぞれバスケットボール、レスリング、そしてボクシングに出場した。2人のクィーンズランド出身者が、有名な「新記録」を樹立した。ライオネル・モーガンLionel Morganは、ラグビー・リーグのテストマッチに、ロイド・マクダーモットLloyd McDermottは、ラグビー・ユニオンのテストマッチに選手として出場した。もう1つの「新記録」はチェリル・マレットCheryl Mullettであった。彼は国際バドミントン選手権でオーストラリア代表に2度選ばれた。西オーストラリアのアボリジナルは、オーストラリア・ルールの試合で活躍した。また、北部オーストラリアのアボリジナルも南部へと移動し、スポーツで活躍しはじめた。この時代、アーチー・ビートソンArtie Beetsonやエリック・シムズEric Simmsは、リーグの伝説的ヒーローとなった。またブライアン・マンセルBrian Mansellはオーストラリアの最初で唯一のアボリジナル・サイクリストとして、数々の記録を打ち立てた。さらにライオネル・ローズLionel Roseは、1968年に東京でファイティング原田から世界バンタム級タイトルを奪った。

 1973年以降、数々の規制が一夜にしてなくなったわけではなかった。スポーツの施設環境の整備もまたしかりである。トニー・マンディーンTony Mundineとヘクター・トンプソンHector Thompsonは特筆すべきリング上の経歴を持つ。彼らは世界タイトル戦に出場した。フットボールの規制は緩やかとなり、彼らの人口比からして驚異的な数のアボリジナルが、ラグビー・リーグの試合に出場した。モーリス・ライオリMaurice Rioliはノーザンテリトリー、西オーストラリアそしてヴィクトリアでも、オーストラリアン・ルールの英雄となった。ラリー・コロワLarry Corowaは、リーグでの業績により、MBE(大英帝国五等勲爵士)を授与された。1991年までに14人のアボリジナルがリーグのオーストラリア代表として出場した。また5人のアボリジナルは、ラグビー・ユニオンのテストマッチに46試合出場している。トレス海峡島出身のダニー・モーソウDanny Morseauは、バスケットボールで27試合オーストラリア代表チームのメンバーとしてプレーした。ハリー・ウィリアムズHarry Williamsは、オーストラリアのサッカー代表チームのメンバーとして17戦も戦った。

 キャシー・フリーマンの活躍まで、イヴォンヌ・グーラゴング・コーリーEvonne Goolagong Cawleyは、スポーツ界で最も偉大な業績を成し遂げたアボリジナルであった。1970年代、アウトバックの少女がテニスの世界に飛び込み、17の州タイトル、3つのオーストラリアン・オープン・シングルス、イタリアン・オープン、フレンチ・オープン、南アフリカ・オープンのタイトルを全て勝ち取り、さらにウインブルドンのシングルスで1971年に、そして再び1980年にも優勝したのである。マーク・エラMark Ellaも偉業を成し遂げた。ラグビー・ユニオンにおいて、オーストラリア代表で25試合出場しただけではなく、10回もナショナル・チームのキャプテンを務めた。さらに、マル・マニンガMal Meningaは、クィーンズランドのカナカ人の血を受け継ぐ人物であったが、リーグのオーストラリア代表チームで40試合に出場し、18試合でキャプテンを務めた。またキャンベラのレイダーズを優勝に導き、英雄となった。スティーヴ・タットンSteve Tuttonも、バレーボールで1983年から1985年までナショナル・チームのキャプテンであった。

 より広い、より寛容な「参加型の」民主主義が、スポーツの世界で始まったのは1980年代の半ばである。アダム・シュライバーAdam Schreiberは、ジュニアのスクォッシュで世界的な選手となりのちプロに転向、メイ・チョーカーMay Chalkerは、西オーストラリア女子ゴルフ・チームのキャプテンを務め、マーシア・エラMarcia Ella、ニーコル・キューザックNicole Cusack、シャロン・フィナンSharon Finnanらは、ネットボールにおいて非常な優秀さを発揮、ニューサウスウェールズとオーストラリアの代表選手となった。1990年代はさらに大きな期待のかかった少女が登場する。キャシー・フリーマンCathy Freeman、10代のアボリジナルのスプリンターであった。彼女は1990年、オークランド・コモンウェルス大会で金メダルを獲得した。同じ頃、西オーストラリアのアボリジナルの10代の少年、カール・ファイファーKarl Feiferは、オランダでの身障者世界選手権大会に赴き、4個のメダルを獲得した。さらに、フリーマンは2000年のシドニー・オリンピックに最終の聖火ランナーを務め、金メダルを獲得し、多文化社会オーストラリアの文字通りのアイコンとなった。

 安井倫子・藤川隆男1202