オーストラリア辞典
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Anglican Church of Australia

オーストラリア英国国教会


1981年までは、the Church of England in Australia (イングランド教会を見よ)


 オーストラリアにおける英国国教会の起源は、ボタニー湾植民地の基礎が築かれた1788年にまで遡る。その時、入植者一行づき牧師だったのが、リチャード・ジョンソンRichard Johnsonである。最初の数十年間は政府公認教会の地位にあり、特に1820年代には、公有地の寄付を受け、教会・学校協会(チャーチ・アンド・スクールズ・コーポレーション)によって、名目上教育をほぼ独占した。現実には国教会への土地の無償交付は進展せず、1833年に協会も解散になった。さらに1836年にリチャード・バーク総督が定めた教会法により、カトリック教会や長老派教会にも政府の資金援助が行われるようになり、国教会は首位性を失った。その後、政府はいかなる宗派にも援助を行わない方針に切り換え(1860年クイーンズランド、1863年ニューサウスウェールズ、1869年タスマニア、1870年ヴィクトリア、1890年西オーストラリア)、政教分離の原則が確立することになる。

 当初植民地の聖職者は、ロンドン主教区の管轄下にあり、後にカルカッタ主教区の管轄下に置かれていた。しかし、1836年にウィリアム・グラント・ブロートンがシドニー主教に任ぜられ、独立した主教区となった。1842年にはタスマニアに、1847年にはアデレイド、メルボルン、ニューカッスルに主教区が置かれた。しかしながら、現在に至るまでイングランドの教会との結びつきは強い。伝統的にイングランド人が主教に任ぜられてきたことがその理由の1つである。その結果、オーストラリア教会独自の憲章の制定を巡って、19世紀以来長年にわたって論争が繰り広げられてきた。1962年になってようやく、1872年憲章に代わる新憲章が制定され、オーストラリアの教会はイングランドの教会から完全に独立した。また、1978年にオーストラリア祈祷書が作成され、1662年祈祷書と並んで広く一般に用いられている。1981年に現在の名称に変わった。最近は、女性聖職者の是非を巡って教会内に論争が起こっている。

 宮崎章00