オーストラリア辞典
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Anglo-Japanese Alliance

日英同盟とオーストラリア:日豪関係


 イギリスと日本の同盟は、オーストラリアにとっては2つの懸念をはらんでいた。1つは、日英間に人の移動や居住の制限がなくなり、それがオーストラリアにも適用されれば、白豪主義を守れなくなることであった。もう1つは、イギリスが日本の太平洋での勢力拡大に好意的になれば、オーストラリアの安全保障の脅威になることであった。

 1902年に第1次日英同盟が締結されるが、このとき、オーストラリアは事前に全く意見を述べることができなかった。ただし、ほぼ同時に成立させた移民制限法が日本の強い反発を招くことになった。日本はイギリスにこの法律を破棄するように求めたが、イギリスは日本に理解を求めるにとどまった。

 1905年の第2次日英同盟の更新の際は、日豪ともに以前とは事情が変わっていた。オーストラリアでは、移民制限に関して日本への配慮を示すようになった一方で、日本が日露戦争で善戦していることから、黄禍論も高まり始めていた。日本では、白豪主義への反発が高まる一方で、外交当局は国際的な孤立を恐れ、日英同盟の重要性を強調していた。結局、第2次同盟でも、オーストラリアは蚊帳の外に置かれたままであった。

 日本の日露戦争での勝利は、オーストラリアの世論を親日から反日へ逆転させた。また太平洋で日本海軍が強大になり、イギリスは1国で太平洋の安全を維持するのが困難になった。これらの事情を考慮したイギリスは、10年間の同盟の終了期限を待たず第3次日英同盟の交渉を始めた。イギリスはようやく、日英同盟にオーストラリアやカナダの同意が必要であるという認識に達し、1911年の帝国会議でコモンウェルスの代表者に同盟の意義を説き、賛同を求めた。

 オーストラリアは、白豪主義、安全保障の両面から日英同盟にそれまで以上の不安を覚えていたが、自由に移民制限立法を行ってよいこと、イギリスの海軍力が不足しているため日本の助力が必要であることなどを知らされ、第3次同盟に同意した。

 第1次世界大戦終結時には、第3次日英同盟の期限切れが近づいていたが、国際情勢の大きな変化に伴い、同盟の存続を疑問視する意見がアメリカはもとより日英国内でも現れ始めた。オーストラリアでは、日本が赤道以北の旧ドイツ領南洋群島を委任統治下におさめたことから、対日脅威論がピークに達していた。

 ところが、大戦中イギリス海軍がオーストラリア防衛に全く無力であることを知ったオーストラリア政府は、同盟の破棄が、白豪主義を恨んでいる日本にオーストラリア侵攻の機会を与えることになりはしないかと危惧し、同盟の存続を希望した。パリ講和会議で、日本とことごとく対立したヒューズ首相も、同盟存続を支持していた。

 オーストラリアは、日本の勢力拡大を抑えるためには、アメリカの協力が不可欠であるとの立場から、太平洋の秩序維持を目的とした英米日の3ヵ国条約の成立を求めた。1921年のワシントン会議で、英米仏日四国条約が結ばれたことで、オーストラリアは対日警戒感を弱め、日英同盟の破棄に賛成したのである。

 酒井一臣 01