オーストラリア辞典
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Archibald, John Feltham

アーチボールド、ジョン・フェルタム


1856‐1919
ヴィクトリアのジロング近く、キルデアに生まれる。
雑誌『ブレティン』の所有者、編集者。


 幼少の時期をウォーナンブールで過ごし、14歳で印刷の見習いとして働くようになったが、この頃からジャーナリストになることを決心し、地元紙に小さな記事を書いていた。

 18歳のときメルボルンに移り、記者としての厳しい下積みの経験を積んだが、一時ジャーナリズムの未来に絶望し、1876年から2年間ヴィクトリア教育局で事務職員として勤務した。メルボルンで過ごしたこの時期に、フランス文化に感化され、自らの過去を書き換え、名前をフランス風のジュール・フランソワ・アーチボールドと変えた。1878年の暗黒の木曜日の後に失業し、クィーンズランドに職を求め移住した。金鉱で働いたときに、生涯で一度本当の開拓者の生活を経験した。

 その後シドニーに移り、『シドニー・イヴニング・ニューズ』で働いたが、1880年に同僚の記者ジョン・ヘインズJohn Haynesとともに、週刊誌『ブレティン』を創刊した。創刊して間もなく、記事の内容が名誉毀損であるとして訴訟を起こされ、1882年訴訟費用が払えずヘインズとともに投獄された。このとき、問題となった記事の筆者であるウィリアム・ヘンリー・トレイルWilliam Henry Traillが雑誌の新しい所有者となって引き継ぎ、アーチボールドとヘインズはその下で働くことになった。

 1883年に体調をくずし、ロンドンへ旅行した。そのときに出会ったローザ・フランケンスタインと1885年にシドニーに戻った後に結婚した。この結婚は、息子が幼くして亡くなるなど、不幸なものとなった。

 1886年にトレイルが政界進出のために所有権を売却することになると、ウィリアム・マクラウドWilliam McLeodとともに『ブレティン』の所有者になった。アーチボールドは1902年まで編集長であった。

 1902年に『ブレティン』を離れた後に、新雑誌を創刊するが、1906年その第1号が出る前に精神のバランスを崩して保養施設に入り、1910年までそこで過ごした。完全に回復したが、1914年には『ブレティン』における権利を売却した。

 1919年に亡くなったが、その遺産により、シドニーのハイド・パークにフランス人彫刻家による噴水が作られ、1921年から年1回のオーストラリア人の肖像画の賞であるアーチボールド賞が設立された。また、その遺産の大部分は、オーストラリアのジャーナリストを救済する基金となった。

 1890年代のオーストラリアにおけるナショナリズムを代表する雑誌が『ブレティン』であり、アーチボールドはその最盛期に最も大きな影響を及ぼした人物である。

 渡部滋之・藤川隆男1202