オーストラリア辞典
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Arthur, George

アーサー、ジョージ


1784-1854
イングランド、プリマス生まれ。
軍人、植民地行政官、ヴァンディーメンズランド副総督(1824-1836)。


 1784年、過去に市長を務めたことのあるビール醸造業者ジョン・アーサーと、その妻キャスリーンの間の末子として生まれる。1804年に陸軍に入隊、1805年には将校に昇進し、各地での任務を経験した。ジャマイカで任務に就いていた1814年には、イライザ・スミスと結婚。彼女との間に7男5女をもうけた。1814年から1822年にかけて英領ホンデュラスを統治し、有能な行政官として賞賛を集めたが、奴隷たちを虐待から保護しようとする企ては、プランターの強い反発を招くことになった。しかし、この試みはイギリス本国の人道主義者たち、奴隷制廃止運動を指導したウィルバーフォースや植民地省次官ジェームズ・スティーヴンなどの支持を得た。病気による帰国を経た後、ヴァンディーメンズランド(後のタスマニア)副総督職を1824年から1836年の間務めた。

 彼の任期中、ヴァンディーメンズランドはニューサウスウェールズから行政上分離し(1825年)、彼は事実上の総督として権限を行使した。彼の在任中、大規模な土地の下付が特にヴァンディーメンズランド会社に対して行われた。また、敬虔な福音主義者だったアーサーは、宗教による教化を通じた植民地のモラル向上に尽力した。さらに、アボリジナル問題を一挙に解決しようとして、ブラック・ラインと呼ばれる、大規模なアボリジナルの討伐を行った。その方法は、島のアボリジナルをかり集めて、保護を名目としてタスマン半島に監禁するという、強圧的なものであった。結局ブラック・ラインは失敗に終わり、生き残った200人のアボリジナルは、ロビンソンの努力により集められ、フリンダーズ島へと送られた。

 アーサーは流刑の熱心な推進者であり、囚人管理のシステムを改革した。アーサーは囚人の改善を可能であると考え、その改善の度合にしたがって異なった処置を与えようとした。まじめな生活と労働をする囚人に事実上の自由が与えられたが、そうでない場合には厳格な処罰が課せられた。植民地で再度罪を犯した囚人たちは鎖に繋がれ、彼の名を冠するポート・アーサーに建設された囚人居留地に送られた。このシステムは残酷であると批判されたが、当時としては公正で慈悲深いものであった。各囚人たちの経歴を記録した彼のブラックリストは、貴重な史料として現存している。彼は警察や治安判事、囚人労働者の雇い主、仮出獄許可証の発行に直接影響力を行使し、無能力あるいは不誠実とされた役人を解雇した。彼の統治の下で植民地は繁栄を迎えた。しかし、権威主義的な統治方法は他方では反発を招き、1836年、アーサーは植民地を後にした。その後、アーサーは植民地に所有する地所を売却して多額の利益を得た。アーサーが犯したとされる不正に対する告発は、彼の「暴政」の証明とは見なされず、本国当局は彼を無実と判断した。

 ヴァンディーメンズランドでの職務を終えた後、彼は上カナダ副総督職(1837-41年)、ボンベイ総督職(1842-46年)を歴任し、1854年にロンドンで死去した。著作に『再犯に関する考察』(1833年)、『流刑制度の弁護』(1835年)がある。

 津田博司0501