オーストラリア辞典
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Australian Labor Party

オーストラリア労働党


 オーストラリアで最も古い政党であり、また世界でも最も歴史の古い社会民主主義政党の1つでもある。19世紀後半から起こった各植民地の労働組合運動により結成された労働組合組織は、1890年代の海運ストライキ、羊毛刈り職人ストライキという2つの大ストライキにおける敗北を経て、政治活動による制度改革を目指すようになった。労働組合によって支援されて各選挙区に結成された政治組織が、1891年にニューサウスウェールズで35人の議員を当選させると、政党としての労働党が本格的に結成されることとなった。続いて他の植民地にも労働党が生まれ、1901年の連邦成立にともない、1902年に各州の労働党議員が参加する連邦議会労働党が正式に誕生した。労働者の生活改善を唱えて出発した労働党は、年を経るごとにその影響力を拡大し、1904年にはJ.C.ワトソンが連邦首相となり、連邦における初の労働党政権樹立となった。しかしこれは少数政権であり、保護貿易派を率いるアルフレッド・ディーキンの圧力ですぐに崩壊した。本格的な労働党政権が初めて成立したのは連邦における1910年のフィッシャー政権であり、これ以降州でも労働党の本格政権が成立し、現在までオーストラリアの2大政党の一翼を担い続けているのである。

 労働党はその内部に労働者の政党と大衆政党としての矛盾、社会主義者とカトリック支持者の対立、各州の利害の対立、都市と農村の対立など複雑な分裂の要素をかかえており、これが3度の大規模な分裂と危機を引き起こした。1度目の分裂は、第1次世界大戦中に徴兵制導入の是非の問題を受けて、W.M.ヒューズとその支援者が労働党を脱退して、保守政党としてのオーストラリア国民党を結成した時に起った。これにより労働党は1929年まで下野することになった。2度目は、大恐慌下における国の財政再建の手法をめぐる対立から、ジョゼフ・ライオンズが脱退し、対立する統一オーストラリア党の党首に就任したときに起った。これによって1931年の連邦議会総選挙で労働党が大敗し、各州の労働党政権も崩壊した。この後党勢は回復し、ジョン・カーティンの下で第2次世界大戦を戦い、戦後もチフリー政権がこれを受け継ぐが、1949年の総選挙の敗北後、労働党は3度目の分裂の危機を迎えた。1950年代中葉、冷戦下における共産主義勢力の排除の問題が引き金となり、サンタマリアの影響下にある党の右派グループが脱退して、反共労働党を結成した。後にこの党は民主労働党と名を変えることとなる。ヴィクトリア州でその分裂の影響はとりわけ深刻であり、労働党は20年以上野党の地位に甘んじることになった。1972年のホィットラムの勝利によって,労働党は再び政権の座につくが、1975年に再び下野した。その後1983年のホーク政権の成立でようやく長期の安定した政権を獲得した。ホーク政権とこれに続くキーティング政権は経済構造改革を進め、金融の自由化や民営化を推進した。しかし、1996年にハワード率いる自由党に大敗し、2003年現在も野党にとどまっている。略称はALP(エイエルピー)であり、一般的にはこのように呼ばれる。

 師井学・藤川隆男0503