オーストラリア辞典
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Bennett,George

べネット、ジョージ


1804-1893
プリマス、イングランド生まれ。
開業医、動植物研究者。


 開業医であり動植物研究家であるジョージ・ベネットはイングランドのプリマスで1804年1月31日に生まれた。15歳のときに彼の人生の幾度にもわたる航海の第1回目に旅立った。1821年に帰国すると、彼はまずプリマスで、続いてミドルセックス病院とハンターリアン医療学校で学び、ここでチャールズ・ベルやハーバード・マイオウやシーザー・ホーキンズのような人物に影響を受けた。1823年3月7日、彼は英国外科医師会の会員資格免許状を得た。その一方でリチャード・オーウェンと知り合い、聖バーソロミュー病院付属医療学校で比較解剖学の講師となった。オーウェンは当時の比較解剖学の第一人者で、オーストラリアにおけるベネットの生涯において、特に古生物学の分野で影響を与えた。

 1828年から1835年にかけて、ベネットは太平洋の広域を航海して回った。1831年に帰国したとき、彼はシンガポールの生きたサルと、エラという名のニューへブリデスの現地の若い女性ばかりでなく、多くの植物を採集して持ち帰った。旅行によって、彼は博物学に関する多くの記録を残した。その中には植物に関する論文や生きたオウムガイの記述、オーストラリアの動物に関する所見などが含まれており、これらの記録により、ロンドンのリンネ協会の会員となり、また動物学協会の通信会員となった。

 ベネットは1829年に初めてオーストラリアを訪れた。1832年の春に再びやってきた彼は、「この植民地に惜しげもなく与えられた非常に豊かな動物相の美しさ」に深い感銘を受けた。カモノハシの研究に特に熱心であり(カモノハシが卵生であるということを明確に立証できなかったが)、オーウェンに多くの現存している動物の標本や化石を送ることができた。彼はそれをもとにWanderings in New South Wales…being the Journal of a Naturalist,1-2 (London, 1834) を出版した。彼の唯一の重要な誤りはライアバード(コトドリ)の巣づくりの習慣に関して、アボリジナルの言を信じたことである。

 英国に戻ると、ベネットは動物学への貢献が評価され、英国外科医師会から金メダルを授与されるという名誉を受けた。1836年再びオーストラリアに戻り、開業医としてシドニーにとどまった。新しく設立されたオーストラリア博物館と動植物移植協会、動物学協会の指導者の1人となった。博物館の古い文書によると彼は「理事」、「最高責任者」、「動物学者」などと呼ばれていた。また訪れた動物学者たちを援助し、鳥類学者ジョン・グールドの仲介人として活動した。ベネットはオーウェンとも定期的に連絡をとり、資料を収集して2冊目の本を作成した。その研究は広域に渡っており、1860年にGatherings of a Naturalist in Australasiaというタイトルで出版された。1890年、86歳のとき、ニューサウスウェールズのロイアル・ソサエティからクラーク記念メダルを与えられた。

 ベネットは1893年9月29日シドニーで死亡した。彼はその名を冠した多数の動植物を含む多くの記録を残したことから、「オーストラリアの偉大なる医者、動植物学者」として知られている。ベネットは人生で3度結婚している。最初の結婚のとき2人の息子と3人の娘、第2の結婚で1人の息子を得て、さらに最後の結婚で2人の子を得たが、この2人は幼くして亡くなった。彼の蔵書は不幸にもシドニー大学におかれることはなく、オークションで落札された。

 西海孝龍0501