オーストラリア辞典
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Bligh, William

ブライ、ウィリアム


1754-1817
プリマス、ディヴォン、イングランド生まれ。
ニューサウスウェールズ総督(1806-1808)、海軍士官。


 バウンティ号の反乱を生き延びたのちに、クックの第3回航海に参加する。また、ナポレオン戦争中にはノア号の反乱に巻き込まれた。1801年にはロイアル・ソサエティの会員となり、ジョゼフ・バンクスの推薦によって、1806年にニューサウスウェールズの総督に就任する。しかし、再びラム酒の反乱と呼ばれる反乱に巻き込まれ、幽閉され、イングランドに帰国。最後は海軍中将となる。

 1754年9月9日、下級税官吏の息子として生まれ、1770年海軍に事実上入り、1776年にはクックの第3回の航海に加わった。さらに、アメリカ独立戦争に参加し、将校に昇進する。1781年、エリザベス・ベサムと結婚するが、彼女は、商人であり、テムズ川の囚人船の管理者であったダンカン・キャンベルの姪であった。西インド交易でキャンベルのために働いたのち、バウンティ号の指揮官として、タヒチ島から西インドにパンの木を運搬する任務についた。1789年4月29日、タヒチ出発後、乗組員の反乱が起こり、ブライと忠実な部下はティモール島まで23フィートのボートで航行した。1791年、ブライは再びタヒチ島に向かい、今回は任務に成功した。その航海記『南海への旅』はロンドンで出版された。1795年から、ブライはナポレオン戦争に従軍する。1801年のコペンハーゲンの海戦では、ネルソン提督の高い評価を受けたが、一方では、1797年のノア号の海軍反乱にも巻き込まれている。ブライは、ほとんど教育を受けてはいなかったが、学識は広く、タヒチへの航海によりジョゼフ・バンクスの知己を得て、1801年ロイアル・ソサエティのメンバーに選ばれた。

 1806年、バンクスの推薦により、年2,000ポンドの給料で、ニューサウスウェールズの総督に任命され、長女のメアリと娘婿のパットランド中尉とともにイングランドを出発した。1806年8月6日シドニーに到着すると、すぐに総督には就任せず、キング総督から土地の無償交付を受けた。また、翌年1月にキング総督夫人に土地の無償交付を行った。これ自体は必ずしも違法ではなかったが、ブライは他の入植者への土地の交付には法律を極めて厳しく運用して、有力者たちの反感をかった。他方、ブライは非合法な醸造の禁止、蒸留酒の決済手段としての使用の禁止などを命じ、ラム酒の交易などで利益をえていた、ニューサウスウェールズ軍団の将校や植民地の特権階級と対立した。

 1808年1月ジョン・マッカーサーに指導されたニューサウスウェールズ軍団の将校たちは、ジョージ・ジョンストンを指揮官とし、ブライを幽閉し、権力を掌握した。これがラム酒の反乱と呼ばれる事件である。1809年2月、ロンドンに直接向かうという条件で解放されるが、それを無視し、ホバートに立ち寄り、コリンズ副総督の支援を求めるが、ここでもコリンズと紛争を起こし孤立した。1810年、総督マクウォリーの到着の報に接し、今度はシドニーに戻り、約5カ月滞在すると、マクウォリーも彼に批判的になった。

 1810年10月25日、ブライはイングランドに帰国。反乱に対する責任は問われず、1814年には海軍中将にまで昇進した。彼は一時ランベスに住んだが、妻が死亡し、年金の受給が決まった後に、ケント州のファーニンガムに引退した。彼自身も、1817年12月7日に死亡し、その遺体は、ランベスのセント・メアリーズに葬られた。ニューサウスウェールズの所有地は、彼の娘たち、後に義理の息子モーリス・オコンネルが継承した。

 藤川隆男00