オーストラリア辞典
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Brisbane

ブリスベン、ブリズベン、ブリスベイン(ブリスベーン)=イギリス風発音


クィーンズランド南東部に位置する州都。
人口:1,291,117(1996)、942,836(1981)、621,550(1961)、299,748(1933)、54,434(1901)、12,551(1864)、2,543(1851)、416(1841)。


 クィーンズランドの州都であり、オーストラリア第3の大都市である。地名は、1821年にニューサウスウェールズ総督となったトマス・ブリスベンに由来する(在1821-1825)。総督の名前にちなんで命名された都市としては、オーストラリアの各州都のうち唯一のものである。

 ブリスベンは湾岸地帯を流れてモートン・ベイにいたるブリスベン川のほとりに発展した。このため市街はしばしば洪水に見舞われてきた。ブリスベン近郊都市の多くは、歴史的に近年の建設であるか、あるいはいまだ建設途上であり、中心部はなお建設・拡張中である。ブリスベン経済は、とくにクィーンズランド南部の農業と鉱業に大きく依存しているが、その一方で近年はハイテク産業の発展もめざましい。市街にはクィーンズランド大学のほかにクィーンズランド工科大学のキャンパス、およびクィーンズランド音楽大学などがある。

 白人の入植がはじまる前は、ガビガビ・アボリジナルGabi-Gabiおよびヤーガラ・アボリジナルYagaraの居住地であった。ブリスベン総督在任中の1823年12月2日、新たな囚人入植地建設に適当な土地を探索することを命ぜられた、ジョン・オクスリーによってブリスベン川が発見された。オクスリーはこれに先立って、すでに同年10月から11月にかけてポート・カーティスPort Curtisを探索し、モートン・ベイの調査を行っていた。この調査の際、オクスリーはモートン・ベイにおいてアボリジナルとともに生活する白人居住者に遭遇している。ブリスベン川の発見後、オクスリーはさらに川を70キロほど上流にさかのぼり、この体験に強い感銘を受けたことで、彼は川に総督の名を冠したのである。

 翌1824年9月、オクスリーはミラー中尉とともに軍の分遣隊や多数の囚人を率いて、さらにレッドクリフRedcliffeにまで足を踏み入れたが、良質で新鮮な水の確保や船のために安全な投錨地の有無などを考えあわせた結果、すでに調査済みであったモートン・ベイを、囚人入植地によりふさわしい地として総督に推薦した。これが現在のブリスベンの地である。

 同年12月、モートン・ベイはフランシス・フォーブズによる視察をうけ、翌1825年2月にようやく囚人入植地がレッドクリフから同地に移された。フォーブズの視察の際、彼によって同地の地名をエディングラシーEdinglassieとする試みがなされたが、結局それは受け入れられず、最終的にブリスベンのほうが広まった。

 一方、オクスリーの行ったブリスベン川の遡行はその後も継続され、エドマンド・ロッキャーEdmund Lockyer(1825)や、アラン・カニンガムAllan Cunnungham(1829)がさらに上流へと調査を進めた。

 入植地の置かれたブリスベンでは、1826年には港が開かれ、1828年からは造船もはじまった。1828年にウィカム・テラスに建設された風車小屋は、1861年には信号基地となり、1895年から1930年までは報時球を備えつけていた(特定の時間、通例正午を知らせるために竿から鉄球を落とす)。1828年から1829年にかけて陸軍の配給局が建設された。1829年までに囚人入植地は、収容人数1,000名を越える、オーストラリア本土最大の流刑入植地にまで拡大した。しかし、1837年バーク総督によって、その規模は300名の囚人と再犯女性囚の受け入れ地に縮小された。同年には最初の蒸気船が航行を開始した。1839年まで、ブリスベンはあくまで囚人入植地に留まるものであったが、1842年までには自由植民希望者に対して、この地への入植の許可が正式に認められた。1839年から1842年にかけて、自由入植者受け入れに備えて測量が実施された。この測量の最中の1840年、測量官がアボリジナルの住民に殺害されるという事件が起きた。犯人は風車小屋で絞首刑に処せられた。1842年に自由植民が宣言され、はじめて土地が競売にかけられた。また同じ年には、ブリスベンとシドニーを結ぶ沿岸蒸気船が就航した。1846年、クィーンズランド最初の新聞である『モートン・ベイ新報』Morton Bay Courierが創刊された(後の『ブリスベン新報』、1933年からは『新報通信』Courier Mail)。1849年にジョン・ダンモア・ラング師の庇護の下に入植した600名のスコットランド移民は、ブリスベンにさらなる成長をもたらした。

 1859年にブリスベンは、ニューサウスウェールズから分離した、クィーンズランド植民地の首府となった。1861年にはブリスベン=シドニー間の電信が開設され、1862年には総督官邸Government Houseが建設され、1865年には現在の建物が完成した。同年、ブリスベン川にかかる木造の橋が建造されたが、これは1867年に崩壊した。

 1871年から1879年にかけて中央郵便局が建設され、1874年にはヴィクトリア・ブリッジが開通した。1875年からはトラムが運転を開始した。1877年には川の防衛のためにリットンLyttonに要塞が建設された。1884年にはホウリ・トライアドに仏教寺院が建設された(1966年に中国系住民によって再建)。1888年には女王陛下劇場が竣工した。1893年の洪水はヴィクトリア・ブリッジと鉄道橋を押し流した。

 1860年代から1880年代は、総じてブリスベンの経済的発展期であったといえる。1890年代には金融危機によっていったん終息をみるが、この間のブリスベンの成長は、主として放牧業の発達や金鉱の発展によって支えられてきた。

 20世紀になるとまず1902年12月にシティの宣言がなされ、肉牛輸出のためにピンカンバーPinkenba波止場が建設された。1908年から1912年にかけて、新たな運河が河口を浚渫して建設された。1909年には下水処理計画がはじまった。同年には以前の総督官邸所在地に、クィーンズランド大学が建設された(1939年にセント・ルシアに移動)。1910年にはセント・ジョン・アングリカン教会の一部が完成し、建設は最終的には1958年までつづいた。1916年には市街への水の供給を目的としてマンチェスター湖ダムが建設された。1930年には市公会堂ならびにウィリアム・ジョリィ・ブリッジが建設された。1934年にはオーストラリアではじめてブリスベン・イプスウィッチ間でテレビ放送が行われ、1937年からはハミルトンとピンカンバーで大規模港湾設備の建設がはじまった。1939年にはエヴァンズ・ディーキンズ造船所が設立された。1944年には南半球最大のグレイヴィング・ドッグ(船底掃除用の乾ドッグ)である、ケアンクロス・ドッグCairncrossが開設された。第2次世界大戦中は、ダグラス・マッカーサー率いる連合国司令部と、オーストラリア陸軍司令部がブリスベンに置かれたが、アメリカ兵とオーストラリア兵の対立が激化し、「ブリズベンの戦い」と呼ばれる暴動が起こった。

 1965年には法令都市計画が起草された。1969年にはトラムが廃止され市バスの運行に取って代わられた。1970年には3代目のヴィクトリア・ブリッジが建設され、1973年にはサウス・イースタン高速道路にキャプテン・クック・ブリッジが開通した。1974年に町を襲った大洪水は一時的に数千名を越える人々の家を奪い、14,000戸の家屋に被害を与えた。こうした大洪水被害の再発をくい止めるために、ワイバンホウダムが建設された。1980年には港湾施設再開発事業の第1弾として、新たなターミナルが建設された(事業そのものは1990年まで継続)。アボリジナルの抵抗運動の中1982年にはコモンウェルス・ゲイムズのホストを務めた。1986年には国際空港とゴールドコーストを結ぶゲイトウェイ・ブリッジが完成し、1988年には万国博覧会が開催された。

 1925年にブリスベン・シティ法により、新たなブリスベン・シティが成立して以来、これを境として広大地域を統括するシティが成長した。他の首府(メルボルンやシドニーなど)では、シティは都市中核部をおおう小さな自治体にすぎないが、ブリスベンは人口898,480人(2001)のオーストラリア最大の自治体であり、都市圏の多くをその内部におさめている特殊な存在である。

 平野孝展0902