オーストラリア辞典
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Broken Hill

ブロークン・ヒル、ブロウクン・ヒル


ニューサウスウェールズの南西端の町、シドニーの西1,169キロに位置する。
人口:20,963(1996)、26,913(1981)、31,351(1954)、19,789(1891)。


 シルヴァー・シティーとも呼ばれる世界的に有名な鉱山の町であり、町の多くの通りには鉱物の名前がつけられている。乾燥地域にあるため、もともと先住民の人口も希薄であり、1860年代に牧畜が行われるようになったが、鉱山開発により本格的な定住は始まった。

 1883年、チャールズ・ラスプがこの地域を探検し、ブロークン・ヒルと名づける。白人の入植以前はWaljaliあるいはDanggaliのアボリジナルの居住地であった。1844年チャールズ・スタートがこの地を探検した。1883年、ラスプによる銀の発見により、1885年タウンが公示され、1886年測量が行われる。1888年、南オーストラリアからの鉄道が開通する。同年町は地方自治体となり、1907年になってシティに昇格した。ニューサウスウェールズの鉄道が開通するのは1927年になってからである。したがって、経済的に町は南オーストラリアとの結びつきが強い。現在も、町ではニューサウスウェールズの標準時ではなく、南オーストラリアの標準時が用いられている。

 1891年、アフガン系ラクダ乗りや他のイスラム教徒のため、モスクが建てられた。現在も再建されたモスクが残っている。1915年、2人のトルコ人がピクニックをする1,200人のマンチェスター・ユナイティッド・ロッジの一団に発砲し、「ブロークン・ヒルの戦い」がおこった。この事件後、当時の法務長官はオーストラリアにいるすべての敵性外国人の抑留を決定した。ソプラノ歌手ジューン・ゴフは1930年、この地に生まれ、生まれ故郷に敬意を表し、ブロンヒルと改姓した。1936年、ローム層が鉱山と町に影響を及ぼしたため、大規模な植物再生の計画がたてられた。水の供給は町にとって常におきな問題であった。1944年から1946年にかけて、メニンディーMenindeeから水が輸送されるようになり、1952年にそこからパイプラインがひかれ、水が安定的に供給されるようになった。

 銀の発見後、採掘が開始され、鉱業はこの地の主要な産業となった。1883年に発見された銀、鉛、亜鉛は世界の中でも最大埋蔵量を持つものであった。1885年、BHPが設立され、1886年に初めての配当が支払われた。1885年にブロークン・ヒル・サウスが操業したが、付近の鉱石は乏しく、1897年まで配当はなかった。ノース・ブロークン・ヒルでも1899年まで配当が支払われなかった。1905年、後のアメリカ大統領ハーバート・フーヴァーが選鉱くずを買い、亜鉛を抽出するための亜鉛会社Zinc Corporationをつくった。会社は、統合ニュー・ブロークン・ヒルNew Broken Hill Consolidatedとして採掘を始めた。会社は後に、CRA(Conzinc Riotinto of Australia)となった。1909年、合併亜鉛会社Amalgamated Zinc Ltdは亜鉛抽出工場を建設した。1916年に子会社のオーストラリア電解亜鉛会社Electrolytic Zinc Corporation of Australiaが設立された。1914年までに10社が8800人を雇用した。BHPは1939年に鉱山の操業を停止した。1944年から1945年の間に、統合ニュー・ブロークン・ヒルは新しい鉱山を開いた。1972年、ブロークン・ヒル・サウスの鉱山が閉鎖された。1970年代から1980年代にかけて、採掘にかかる費用や世界の鉱物価格の変動から、この地における鉱業は衰退することとなった。

 ブロークン・ヒルでは、労働組合の運動も活発である。バリアー・レインジ鉱夫組合Barrier Ranges Associationは、1886年シルヴァートンから移転した。1889年に最初の鉱夫によるストライキが行われ、1890年、1892年にもストライキが行われた。1892年のストライキは非労働組合員の雇用に反対しておこったのであるが、活動家たちは投獄されることとなった。1891年から1905年に建設されたトレード・ホールは、組合により所有されたオーストラリア最初の建物である。1898年に設立されたバリアー・トゥルースBarrier Truthは、1908年オーストラリアで最初の組合所有の日刊紙を刊行した。1900年には、ブロークン・ヒルからオーストラリア初の労働党市長が選出された。第1次世界大戦とロシア革命により活発になった、1909年から1921年の労働争議は、その攻撃的な性格から、組合の町としてブロークン・ヒルの名を全国的にとどろかせた。1920年、組合員は週35時間労働を勝ち取った。すべての組合は1924年にバリアー・インダストリアル・カウンシルBarrier Industrial Councilとして統合された。

 現在も町の中心部に横たわる鉱山で採掘が継続されており、鉱石は南オーストラリアのポート・ピリーに送られて、精錬されている。しかし、最近急速に成長してきた産業は、観光業であり、鉱山も観光客に向けのツアーを行っている。美しい19世紀建築のホテル、パレス・ホテルはドラッグ・クィーンの映画の舞台となったことでも知られている。1890年代に立てられたタウン・ホールや郵便局は、トレード・ホールと並んで、ブロークン・ヒルを代表する美しい建築物である。芸術の町としても有名で、プロ・ハート・ギャラリーの他、アボリジナル絵画のギャラリーなど、多くの画廊がある。ブロークン・ヒルは、今や鉱山の町から芸術の町へ大きな変身をとげようとしている。町の周辺部では牧羊が行われているが、旅行者には単に荒地が広がっているとしか思えないだろう。

 藤川隆男・中西雅子0704