オーストラリア辞典
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Broome

ブルーム


西オーストラリア北部、パースの北2,237キロに位置する。
人口:11,368(1996)、3,666(1981)、2,049(1971)、754(1933)、908(1911)、121(1891)。


 西オーストラリア総督、フレデリック・ネイピア・ブルームに名前は由来している。かつてこの地域に居住していたのは先住民JuKunあるいはYawuruの人々であった。ウィリアム・ダンピアは、1688年の航海で海岸線を探検しており、1699年の航海ではロウバック湾Roebuck Bayで難破した。フィリップ・パーカー・キングは、このロウバック湾を1818年に探検した。真珠貝が1860年代に発見された。およそ80隻の小型の漁船が1874年までには活動するようになった。港と町は1883年に設立された。このとき、測量長官ジョン・フォレストにより、町はブルームと命名されたのである。その後、町は真珠産業の中心となり、2,000人以上の労働者とおよそ400の小船を持つほど成長する。アボリジナルの潜水夫が奴隷のように使われていたが、後にマレーシア人とフィリピン人に取って代わられた。さらに日本人ダイバーが主力となる。

 ジャワへの海底電信線が1889年に開通した。これは町の成長の大きな刺激となった。現在の裁判所が電信基地として建築され、ロウバック・ホテルが開業した。潜水ヘルメットと空気ポンプが1900年代に導入され、水深の深いところでの作業もできるようになった。当時のブルームは、世界の真珠産業の中心地であった。真珠採取のシーズンオフには、3,000人のアジア系のダイバーが町にあふれたと言われる。しかし真珠は、1920年代までに採り尽くされ、かわって真珠の貝殻が重要な産物となった。1930年代には真珠産業の規模は小さくなり、日本人がほぼ独占するようになった。しかし、第2次世界大戦が始まると、日本人のすべてが抑留され、真珠産業はほぼ壊滅した。それに代わって、アメリカ軍とオーストラリア軍が駐留し、1942年日本軍による爆撃を受けた。この爆撃による死者は70人に達した。御木本幸吉の技術を利用し、1956年には真珠の養殖が始まり、牛肉の輸出も始まった。観光業は1980年代に重要性を増し、1年に1度の真珠祭りは、主なアトラクションになっている。また、周辺地域では畜産業も盛んである。日本人ダイバーの墓地のある町でもあり、また町から9キロ南の海岸には、恐竜の足跡の化石を見られる場所がある。1989年には、ブルーム・アボリジナル・メディア協会が設立され、1991年からキンバリーの先住民にラジオ放送を提供している。

 西川俊紀・藤川隆男0403