オーストラリア辞典
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Burke and Wills Expedition

バークとウィルズの探検


 オーストラリア北部の探検のことであり、その遠征隊の中の代表的な2人の男、バークとウィルズの名前をとってこう呼ばれた。一般によく知られている歴史上のでき事であって、7人が命を落としてまでなされた悲惨な探検行であった。アイルランド生まれの警察官である、ロバート・オハラ・バークRobert O'Hara Boukeが、ヴィクトリア政府の援助を受けて探検隊を組織した。その探検隊の第1の目的とは、南から北へオーストラリア大陸を縦断することであった。彼ら一行は装備を整えて、メルボルンを出発した。 1860年8月のことである。副隊長はイギリス生まれの測量技師であり、気象学者でもある、ウィリアム・ジョン・ウイルズWilliam John Willsであった。バークたちは1860年11月にクーパーズ・クリークにベースキャンプをおいた。そこにウィリアム・ブラらを残して、バーク、ウィルズ、ジョン・キング、チャールズ・グレイら4人は、6頭のラクダと1頭の馬と3カ月分の食糧を携えて、12月に出発、1861年2月にカーペンタリア湾に到達した。ここにおいて史上初めてオーストラリア南北縦断が達成されることとなった。グレイはクーパーズ・クリークに帰還途中に死亡したが、残りの3人は1861年4月21日にベースキャンプに到着した。だが不幸なことに残してきたブラらは、メニンディーへその日出発したところであった。ウィルズの忠告を無視して、バークはブラらの後を追うのではなく、ホウプレス山Mount Hopelessに向かうことに決めた。ブラは15日後に戻ってきたが、彼らからのメッセージや痕跡は見つからなかった。メルボルンなど数ヵ所から捜索隊が出されて、彼らの行方探しが始まり、そしてついに、アボリジナルと生活をしているキングを1861年7月に発見した。彼によりバークとウィルズは、栄養失調と極度の疲労により、6月の終りに死亡していたことがわかった。人々は彼らの冒険を知って英雄として称えたが、ヴィクトリア政府の調査委員は批判的な態度を示した。

 師井学00