オーストラリア辞典
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Church of England

イングランド教会、英国国教会


 オーストラリアのイングランド教会の創立は、1788年の最初のオーストラリア植民にまでさかのぼる。この年、リチャード・ジョンソン師が入植者と囚人への説教を開始した。イギリスの教会と同じ特権は与えられることはなかったが、しばらくの間、オーストラリアのイングランド教会は、植民地では公式の教会であった。これはとりわけ1820年代に当てはまる。この時代、短期間ではあったが、教会・学校協会のもとで、植民地における教育に対する全般的な管理権を与えられていた。

 しかしながら、教会が享受していた優位は、1836年の教会法の施行によって崩されることとなる。同年、総督リチャード・バークは、他のキリスト教宗派へ財政援助を拡大した。その中でもローマ・カトリック、スコットランド長老派が強力なライヴァルであった。自由主義が広まるなか、宗教に関する問題においても自由主義は主張されており、イングランド教会を、キリスト教諸宗派の1つと見なしたバークの行動は、後年、全教会に対する援助の中止につながった。

 初期のオーストラリアの国教会組織は、特権を持つイギリスの教会と同等の地位を獲得することに不利になるように作用した。植民地の牧師たちは、初めロンドン主教管区の管轄下に置かれていた。さらにウィリアム・グラント・ブロートンがシドニー在住の主教に就任する1836年までは、カルカッタ主教の管轄下に置かれていた。各植民地が創設されるにしたがって、主教の数も増加した。自治権を得るにつれて、他の管区もそれに続いた。オーストラリアとイギリスの教会とのつながりは常に強かった。長年にわたり、イギリス人をオーストラリアの主教職に就任させるとの伝統があった。しかし、オーストラリア独自の機構・機関の維持をめぐる論争はやむことはなかった。オーストラリアの教会とイギリスの教会の関係は、長年の懸案事項であり、1960年にオーストラリア主教間の合意の後、1962年にオーストラリアの国教会は、英国の国教会から法的に分離した。その時採用された正式名称がthe Church of England in Australia である。

 オーストラリアのイングランド教会は、1981年にその名称を「オーストラリアのアングリカン教会」the Anglican Church of Australiaに改称した。現在カトリックに次ぐオーストラリア第2の信徒数を有する宗派であり、教育や社会福祉活動に広く携わっている。20世紀初めに組織されたブッシュ・ブラザーフッドは、教会の重要な行動として知られている。その組織を通じて聖職者たちは、オーストラリアの孤立した地域でヴォランティア活動を行い、僻地のコミュニティへの牧師の派遣を行った。

 中村武司00