オーストラリア辞典
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Communist Party of Australia(CPA)

オーストラリア共産党(シーピーアイ)


1920年に結成された共産主義政党。


 1920年10月30日にシドニーで結成。ヴィクトリア社会主義党とシドニーの社会主義者グループが合併する形で成立した。W.P.アーズマンEarsmanや、ニューサウスウェールズ労働評議会議長J.S.ガーデンGardenが中心となった。共産党は、労働党結成の後に、労働運動の中で活動を続けた小規模な急進グループに由来している。当初から内部の派閥争いが絶えなかった。1922年にコミンテルンと提携。同年、コミンテルンの指示により、労働組合に基盤を持つ連合共産党United CPAが正統とされ、以後「CPA」の略称で知られるようになる。党内に強い反対はあったが、労働党とも協力した。しかし、20年代半ばに労働党は、共産党のコミンテルンとの関係を理由に協力を断った。1930年代には、恐慌を背景に共産党は急速に勢力を拡大し、シドニーのドマインなどで繰り返し大規模な失業者の集会を開いた。共産党の勢いは1940年代にピークに達した(44年で党員数23,000人)。

 第2次世界大戦中(1940-42年)には、一時活動が禁止されたが、西側連合国とソ連との同盟が共産党への印象を好転させた。また党名もthe Australian Communist Partyに改称した。1944年から50年の間、共産党は、唯一の議員であるF.W.パターソンをクィーンズランド上院に送り出した。50年代に入ると、メンジーズ政権は、共産党を禁止に追い込もうとした。1950年の共産主義政党禁止法や1951年の共産党解散の是非をめぐる国民投票など様々な手段を行使したが、結局失敗に終わった。こうした苦難を乗り切ったにもかかわらず、党内の路線争いは絶えず、労働党との提携を模索する主流派に反発して、1963年に親中国派のグループが党を離脱。1971年には、親ソ連派グループが党を離脱。その後も党勢の衰えは止まらず、1991年にオーストラリア共産党は解散した。

 三木一太朗00