オーストラリア辞典
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Conscription

徴兵制


 男子を対象として、軍務への参加を義務づける制度を指す。徴兵制の問題は、20世紀のオーストラリアにおいて論議を呼んだ問題の1つであった。

 オーストラリアで初めて兵役義務が法制化されたのは、1903年のことである。1903年連邦防衛法により、戦時下での男子に対する兵役義務が定められたが、その範囲はオーストラリア連邦内に限られており、海外での軍務については戦時、平時を問わず免除された。その後制定された1909年防衛法では、兵役義務が平時にも拡大されたものの、軍務の範囲は連邦内に限定されたままであった。1911年には、12歳から25歳までの男子を対象とした軍事訓練が実施された。この制度では、1915年までに60万人以上が登録したが、訓練を受けたのは約16万人であった。この制度は不定期のもので、外国人や神学生、学校教師、健康上の問題がある人々などは兵役を免除され、兵役義務の対象となるのは、訓練地近郊の人々に限定される状態が、第1次世界大戦期まで継続した。

 第1次世界大戦開戦後、ヒューズが率いる連邦政府は、戦時下での海外軍務も含めた、男子に対する兵役義務を法制化しようと企てた。激しい議論のただ中で最初の国民投票が1916年に、続く1917年にも投票が実施されたが、いずれも提案は否決された。この国民投票が原因で労働党は分裂した。第1次世界大戦中には、入隊適齢男子を対象とした軍事訓練は一時停止され、士官候補生の育成に精力が注がれた。また、志願兵からなるオーストラリア帝国軍(AIF)が活躍した。

 両大戦間期の1920年代、軍事訓練は徐々に減少していき、スカリン労働党政権時代の1929年、兵役義務は完全に廃止された。しかし、第2次世界大戦が勃発した1939年に、まずオーストラリア国内での20歳以上の未婚男子の兵役義務が、メンジーズ統一オーストラリア党政権により導入され、市民軍the Citizens Military Forces(CMF)が編成された。1943年には海外軍務についても、カーティン労働党政権下において、制限を設けた形で施行された。徴兵された兵士たちもオーストラリアを離れ、「南西太平洋地域」内の指定地域へと派遣された。既出のAIFは市民軍と協力し、第2次世界大戦中にも目覚ましい活躍を見せた。

 第2次世界大戦後の1951年、メンジーズ自由党政権によって、国民兵役計画として知られるようになる兵役制度改革が行われた。これにより、18歳の男子に半年間の兵役が義務づけられた。参加者は、陸海空の入隊先を選択することができたため、海外軍務のない陸軍に希望が集中した。この計画は1960年6月に廃止され、代わって1964年に新たな徴兵制度が導入された。抽選により選ばれた20歳の男子は、陸軍での2年間の兵役を義務づけられ、海外軍務に送られる場合もあった。ホルト自由党政権は同計画に基づき、ヴェトナム戦争へ兵士を派遣した。この計画の下で、およそ6万4千人の人々が徴兵され、このうちヴェトナムで任務に就いた者は、1966年から1972年の間で1万9千人に上る。また、これらの人々以外にも、市民軍といった形で軍務についた人々も存在した。上記の状況を受けて、徴兵制についての激しい議論が再燃し、まず兵役期間が18ヵ月へと短縮された。そして、新たに成立したホイットラム労働党政権により、1972年12月、オーストラリアにおける徴兵制は完全に廃止された。

 津田博司0501