オーストラリア辞典
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Darwin

ダーウィン


ノーザンテリトリ北西部、東にフランシス湾Frances Bay、西にファニー湾Funnie Bayを臨む州都。
人口:70,251(1996)、72,937(1986)、56,482(1981)、20,413(1966)、8,071(1954)、944(1911)、4,898(1891)、3,451(1881)。


 1839年、この地に至ったビーグル号の船長ジョン・ロート・ストークスが、友人のチャールズ・ダーウィンの名をとって、ポート・ダーウィンと名づけた。ヨーロッパ人による入植以前はララキーアLarakia(Larrakia)のアボリジナルの居住地であった。1867年のエスケイプ・クリフス植民の失敗を受けて、南オーストラリア測量長官ジョージ・ゴイダにより、1869年にポート・ダーウィンに入植地が建設され、当時のイギリス首相にちなんでパーマストン入植地と命名された。その港がポート・ダーウィンと呼ばれることになった。しかし、その後、この港の名が町の名に流用されるようになっていった。入植地の成立後まもなく監督官が赴任し、1870年に、大陸縦断電信線の北端が設置され、1872年に政府庁舎が建設された。翌年の1873年にノーザンテリトリー最初の新聞『ノーザンテリトリー・タイムズ』が刊行された。ノーザンテリトリー初の学校が設立されたのは、1877年である。1874年時点の人口は概算でヨーロッパ人が600人、中国・マレー系人が180人であったが、1880年から1900年にかけてのゴールドラッシュの進展とともに人口は急増した。1889年、パイン・クリークとの間に鉄道が開通し、1929年にバーダムまで路線が延長された。

 1911年、ノーザンテリトリーは連邦の統治下に入り、パーマストンはその名を正式にダーウィンと変え、この地域の行政の中心となった。1915年にダーウィン市議会が開設された。1919年にはロス、キースのマクファーソン兄弟によるイングランドからの飛行、リグリーとマーフィーによるオーストラリア南北縦断飛行が行われた。さらに1930年にエイミー・ジョンソンが女性として初めてイングランド=オーストラリア間の飛行に成功した。また、同年にはダーウィン市議会が解散し、自治体選挙における成人参政権を導入しようとする連邦政府に抗議した。1932年、最初の継続的な電力供給が開始され、1934年には、ダーウィン経由のイングランド=オーストラリア間定期航空便の運行が始まった。1936年から43年にかけて、イースト・ポイント要塞が建設され、現在は戦争博物館の一部となっている。1937年、市議会は自らの請求により閉会され、39年に市管理委員会へと引き継がれた。

 第2次世界大戦中には、ダーウィンは爆撃による深刻な被害を受けた。1941年の日本軍の真珠湾攻撃に伴い、女性や子供などの非戦闘員は疎開し、米豪の兵員が多数ダーウィンに駐留することになった。1942年2月19日、日本軍による最初の空襲がイースト・ポイントとダーウィン・ハーバーに対して行われた。この空襲により、防波堤が破壊され、8隻の船が沈没、少なくとも243人が死亡した。1942年2月から1943年11月までの間に合計63回の空襲があり、その犠牲者の多くはアデレイド・リヴァーに葬られた。1942年にダーウィンは軍政下に入り、1945年まで通常の行政の中心はアリス・スプリングズにおかれた。

 戦後復興は50年代まで続けられた。1945年に空港兼空軍基地が建設され、1954年には、この空港でソ連大使館員ペトロフ氏の夫人の解放に連邦警察が介入し、夫人は政治亡命を許可されることになった。1957年にノーザンテリトリーで最初のミュニシパリティが設立され、59年シティとなった。1962年に蒸気タービン発電所、1963年に輸出用の屠殺場、1971年にテレビ局、1972年に2つのエビ加工工場が建設された。1974年、ダーウィン・コミュニティ・カレッジが開校した。同年のクリスマスには台風「トレイシー」が町を直撃し、建築物の大半は破壊され、66人の死者・行方不明者を出した。多くの人々が避難したため、人口はおよそ4万人から1万2千人に減少したが、半年後には3万人まで回復した。また、この台風によって、1884年にジョン・ナイトの設計で建設された旧警察署と裁判所も破壊されたが、1980年代の初めに修復された。その後、町の再建はダーウィン災害復興委員会のもとで進められた。1976年から77年にかけては、「ボート・ピープル」と呼ばれる多くのヴェトナム難民が流入した。観光や公益事業が主要な産業である。主要都市の中では最も多民族化している都市としても知られている。

 津田博司0702