オーストラリア辞典
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Dawson, Andrew Anderson

ドーソン、アンドルー・アンダーソン


1863-1910
ロックハンプトン、クィーンズランド生まれ。
政治家


 労働党員として、クィーンズランドの労働党の発展に大きく貢献した人物である。1893年から1901年までクィーンズランドで州下院議員、また1901年から1906年には連邦上院議員を務めた。特に州下院時代の1899年12月には、7日間であるが、形式的には世界で初と言われる労働党内閣をクィーンズランドで組閣した。

 生後間もなく両親(父は水夫であった)を亡くした彼は、9歳までブリスベンの孤児院で過ごした。それからギンピーの伯父のところへ移り、12歳まで学校に通った後、主にチャータズ・タウァーズで、鉱夫や新聞の出版など様々な仕事をした。1887年12月21日に、彼は未亡人だったカロライン・ライアンと結婚した。

 この頃クィーンズランドでは組合運動が盛んになっており、ドーソンも地元の鉱夫組合の議長になるなど、労働組合運動に参加していった。ドーソンはまた、1892年に『北の鉱夫』Northern Minerに論文を投稿し、翌年チャータズ・タウァーズの『イーグル』紙の初代編集者となった。

 1893年、ドーソンは労働党の議員としてチャータズ・タウァーズからクィーンズランドの州下院に当選した。彼は議会内では主として鉱山や鉄道に関する問題を取り上げ、また議会の承認なしにクィーンズランド政府が南アフリカへ軍隊を派遣することに反対した。議会外では自由党の法律家T.J.バーンズByrnesと親交が深かった。このように労働党以外の人間とも親交があった彼は、労働党は自由党と手を結び内閣に加わるべきだと考えていた。州首相ジェームズ・ディクソンJames Dicksonが1899年11月に辞任した後、12月1日に州首相となり「世界初の」労働党内閣を作り上げたが、彼が期待していた自由党およびディクソンに反対していた与党議員の支持をうまく得られず、少数派のドーソン労働党内閣は12月5日に辞任し、12月7日に正式に退陣した。

 1900年8月、健康上の理由もあり、州労働党の指導者の地位を退いたが、ドーソンは連邦結成への忠実な支持者でもあり、1901年、クィーンズランドから連邦上院議員に当選した。彼は1904年にワトソン内閣の防衛大臣を務めた。しかし、彼の労働党とリベラル派との協力への支持や選挙寄付金への抵抗などから、その後労働党内部で孤立していき、1906年の選挙には無所属で出馬するものの落選することとなった。

 政界を引退した後、1910年7月20日、アルコール中毒のためブリスベンで死亡した。

 清水寿夫00